他所のピラニア論評
みなさん、こんにちは。
DAです。
こんばんは。
今回は、前回に引き続き、一つの曲について深掘りしていくヤツを!
やります。
前回、ちょっといい話テイストにしてしまって、自分でハードルを上げた感が否めないですが、頑張ります。
私も頑張って書くので、みなさんも頑張って読んでください。
それじゃあ、張り切って、行きましょう〜〜〜
今回取り上げる曲は、
みんな大好き!
『他所のピラニア』
です!!
みんな大好きでしょ?私は大好きです。
この『他所のピラニア』という曲、前回取り上げた『YELLOW』と同じく、『フレデリズム2』に収録されています。
『フレデリズム2』のトレーラーが発表された時に、この曲のみイントロだけ解禁されたことで界隈はザワつきましたが、個人的には
「昔のフレデリックっぽい!」
という反応がとても大きかったような気がしています。
でも、それ、ほんまか???
と、そう思ったので、今回この曲を選んだ次第であります。うふふ。
でも、この点についてはまだ引っ張りますね〜〜
頑張って読みましょう。私も頑張って書きますので。
焦らず、まずイントロから触れていきます。
この曲のイントロ、解禁された時も思いましたが、この
『ピラニアが群れになって、ぞろぞろ押し寄せてくる感』
この曲の前に収録されている『スキライズム』の、突如終わる感も相まって、背筋が凍ります。
この怖い怖いピラニアという魚。
実は、本当は臆病な生き物で、という話は各所で康司さんがしてくれていますが、一応ここでも触れておきます。
『概して臆病な性質であり、特に単体での性格は極端に臆病であるため群れることを好む。自分より大きく動くものに対しては、すぐ逃げ出す傾向がある。』
『野生種の食物は他の魚や稀に水に落ちた雛鳥やネズミなど、主に自分よりも小形の魚類や動物類である。他には川で死にかけている、もしくは川で死んでからあまり時間が経っていない動物類の肉も食べていて、「たとえ空腹でも大型の温血動物は襲わない」という説は誤りである。獲物からは常に距離を取り、その安全圏から獲物の肉を盗み取るように高速に泳ぐ。ただし、血液臭や水面を叩く音に敏感に反応し、群れ全体が興奮状態となると水面が盛り上がるほどの勢いで獲物に喰らい付く。』
この情報はWikipediaから引っ張ってきただけの情報なので、あまり鵜呑みにしないでほしいのですが、
康司さんが仰っていたように『自分より弱いものにしか噛みつかない』魚のようです。
『裏腹にピラニア食い散らかしてくわ
群れて 跡形もなく』
イントロで、群れになって押し寄せてきたピラニア達、
どんどん『食い散らかして』いくのですが、
いくのですが!
『裏腹に』
というこの言葉、聴き流せませんよね?聞き流してませんよね?
『(食い散らかしていくなんて、そんなことしないと思ってたのに、それとは)裏腹に』食い散らかしていくわけです、ピラニア達は。
だから、
『どさくさに紛れてあなたの懐に入る』
ことができるのではないでしょうか?
『裏腹』というのは、要するに『正反対』という意味ですが、個人的には、ただ『正反対』というよりも『裏切り』的な感情が色濃く表現されているように思いました。
『だからワンツースリーで受け流せ かたくなな心
逃した魚は大きかったって誰が言ってた?』
この曲のサビ、『受け流す』じゃなくて『受けながせ』としたのは、なんでだろうかとめちゃくちゃ考えたんですけど、しっくりくるものが一つに絞れなかったので、2つ説をあげます。
⑴自身に『受けながせ』って言い聞かせている説
⑵ピラニア達に『受け流してくれ』って伝えようとしている説
絞れませんでした。すみません。
両説取りつつ進めます。
ここで言う『かたくなな心』とは、ピラニア達が食い散らかしていく、その意図、だと考えたのですが、
もう!ちょっと進めづらくなってきたので!
ここで!ピラニアの正体が一体なんなのか!?若干触れます!!
最後まで引っ張ろうと思ってたのに!!!(怒)
はい、えー、これは『Taking Rock!3月号』からの引用なのですが、インタビューにて、康司さんが『対価』についてお話しされた箇所で
『今の時代って娯楽に関しても”もらいっぱなし”が多い気がするんです。自分の欲を満たしたいから”欲しい、欲しい”となり過ぎて、もらったものに対してプラス1にして返さないから流行り廃りも早いのかなと。』
というコメントがあり、その上で『対価』は『お客さんに対する感謝の曲』だと仰っているのですが、
個人的に、本当に勝手な解釈ですが、『対価』が『感謝の曲』であるなら、『他所のピラニア』は『警鐘の曲』なんじゃないかと、そう思っています。
ピラニア達が獲物を襲う時、
『血液臭や水面を叩く音に敏感に反応し、群れ全体が興奮状態となると水面が盛り上がるほどの勢いで獲物に喰らい付く』
そうですが、この盲目とも感じられる食らいつく意思、それこそ『かたくなな心』なのでは、と思います。
『こんな意思、受け流してしまえ!』
なのか
『そんな気持ちに触れ回されないで、受け流して』
なのか。
あなたはどっち派でしょうか??
私は、決められませんでした。
散々、食い散らかしていったピラニア達、サビが終わると、また新たな獲物を探してぞろぞろと泳ぎ始めます。
『投げつけたラザニア ドロドロのテラス
やめて 傷口を知らず』
この曲の2番のAメロ、思わず『投げつけたラザニア』のインパクトに目を引かれてしまいますが、まずは『テラス』の方に触れます。
普通に、テラスといったら、物件を外から見て一番目立つ場所ですよね。
建物を見て、一番最初に「あっ、リビング見えた」っていう人は、嘘ついてるか透視能力者かのどっちかです。知らんけど。
その、『外から見て一番初めに見える場所』にラザニアを投げつけられてドロドロになっていると、そういうことだと考えました。
さて、このラザニアを投げた犯人、一体誰なんでしょうか?
考えてみましょう。
さっき述べた、『他所のピラニア』は『対価』の対なんじゃないか説に沿って考えていきます。
『対価』が、音楽の生み手である彼らから、その受け手であるお客さんに向けての曲であるならば、
その対にあたるこの曲も、彼らからお客さんへの曲であると仮定します。
この論評も概してそうですが、現在、顔の見えない誰かの作品を気軽に見ることができて、気軽に感想を伝えることができて、
それと同じように、簡単に貶すことができます。
それがいいとか悪いとか、そういう話ではなく、事実としてそうですよね、というそういう話です。
家の中にいる人には、外にいる人の顔は見えないけれど、
その顔の見えない誰かが自分の家のテラスをドロドロに汚して立ち去ってしまうことだって、そんなに難しいことじゃないことは、きっとあなたも、分かっているんじゃないでしょうか?
顔の見えない、表情の見えない誰かの感情を知る、なんてことは、きっとできません、透視能力者でもできません。たぶん。
直接会った人の気持ちだって、完全に分かることはできないのに、顔の見えない人の傷口なんて、知れるはずもないと思います。
群れになって、その傷口の、血の匂いだけをを感じて盲目になったピラニアは、きっと顔の見えない私たちなんじゃないかと、思います。
私は!そう思います、という個人の解釈です。
『水槽の中で与えられるまで動かない
濡れて 臆病な牙で』
『対価』を払わずに、ただ口を開けて待つだけのピラニアは、自分から率先して獲物を探しにはいきません。
いやこれ、自分で書いてて、とっても罪の意識に苛まれますけど。
私も頑張って書くので、皆さんも頑張って読みましょう。頑張りましょう。
『正義のピラニア 欲望のままに』
正しい、と思う心はいつだって強いものです。
でも、そのあなたの思う『正しい』が、顔の見えない誰かにとっては『正しい』じゃないことも、往々にしてあります。
「私が今、正しいと思って突き進む行動が、その『正しい』は思い込みじゃないのか?」
本当に『正しい』と思って行動している時に、そう考えることは簡単なことではありません。
『自分にとっての正義が、相手にとっての悪になりうる』
それに気がつくのは、もう食い散らかしてしまった後だったりも、してしまうのです。
『逃した魚は大きかったって 誰が言ってた?』
と、食い散らかした後に後悔しても、後の祭り、ということ
ありましたよね?
顔の見えない誰かの正義を食い散らかすことは、意外と、誰にでも出来てしまうことなんじゃないでしょうか。
この曲の最後に、目の前で指を差されるかのように歌われる最後のフレーズ
『あなたの心は小さかったって誰が言ってた?』
この記事の初めに、「昔のフレデリックっぽいってみんな言うけどほんまか?」的なことを書きましたが、ここでその話に戻ります。
過去、フレデリックは多くの社会風刺的な曲をリリースしています。
例えば、『SPAM生活』では『死んだ魚のような目をした魚のような生き方はしない』と歌い、『まちがいさがしの国』では『正解探しをまた始める気ですか?幸せ探しが大好きな国ですね』と歌っています。
『SPAM生活』では、(まじでざっくりですが)社会に染まってつまらない生き方をする人間にはなってやらない、というどちらかと言うと内向的な感情が色濃く感じられます。
また、『まちがいさがしの国』は、(またまたざっくりですが)”対『世の中』像”がタイトルからもはっきり感じられる楽曲です。
(ざっくりですみません、いつかちゃんと触れます…)
しかし、この『他所のピラニア』では、ラストに
まるで、目の前に立って、自分の顔に向けて指を差されるかのように、はっきりと
『あなた』
という言葉が使われています。
他でもない『あなた』に向けて歌っているんだよ?と最後に、背中に悪寒が走るようなそんな気持ちにさせられてしまいます。
私は、これまでの、社会風刺を呈したフレデリックの楽曲の中には、こんなにはっきり二人称に対する感情が向けられたことはなかったんじゃないかな、と思い、『新しいフレデリックだなぁ』と感じました。
音楽を生む人、聴く人
絵を描く人、見る人
文章を書く人、読む人
あなたはどうですか?
盲目のピラニアに、なっていませんか?
この『他所のピラニア』と言う曲は、フレデリックから私たちへのそんな『警鐘』なんじゃないかな、と私はそう思いました。
以上で『他所のピラニア論評』を終わります。
曲の性質上、なんか意味深な感じになってしまいましたが、特定の誰かを指して書いたとか、そういうあれではないです。
どこにでも起こりうる話の一つとして、捉えていただけると嬉しいです。
どうか、よろしくお願いします。