訃報の使い方

一気に寒くなった。
平地でこれくらい寒いということは、山の夜は10℃以下になっているかもしれない。

それでも、アトラス彗星が遠ざかったタイミングで、どこか山の上のキャンプ場に行き、視界を遮るものがないところで星を眺めたい。
夜になると、四国のツーリングを記録したブログを読み漁ったり、GoogleMapでよさげなキャンプ場を探したりしてしまう。
「早く寝なよ」と思う私もいるのだが、深い時間になるほど目がさえてきて、旅心が止まらない。
そんなに焦って出かけなくたって、来年も、再来年も機会はあるはずなのに。

けれど、「本当に行けると思ってる?」と不安をあおってくる何かがいて、「動け」と「止まれ」が両方から心を引っ張る。
明日のことだって、本当はわからないのだ。
多分、生きてるんだろうという予測のもと、「髪を切りに美容院に行こう」とか「あのカレー屋さんに行こう」と計画するのだが、例えば私が急にこの世からいなくなったとき、「予約した美容院に誰がキャンセルの連絡をするんだろう」と考えてしまうと「やっぱり予約がいらないところにしよう」と取り消しボタンを押してしまう。
私の不在の影響を、極力少なくすることを考えてしまう。
明日のことすら見えないような心細い気持ちになり、遠い未来のことは余計に決められない。

不思議だ。
ちょっと前までは、先のことなんて、まったく気にしたことがなかったのに、私の中で何が変わったのだろう?
そりゃあ相応に年を取ったけれど、体は動くし目も見える。
不測の事態を常に考えて、やりたいことをあきらめるなんて馬鹿げている。
理屈ではわかるのだが、本能の部分が外に広がろうとする自分を押しとどめ、小さくなろう、縮こまろうとしてくる。
長生きしたいなんて思ったこともないのに、本当に不思議だ。

と、ここまで書いて、はたと気づいた。
そうか、西田敏行さんとピーコさんが亡くなったのが、じわじわ効いているんだ。
人生100年時代と言われて、100歳まで死なないと思い込んでいた。
なのに、彼らが70代で消えてしまったことが、ショックだったんだ、私。
残り少なくなったお菓子を、もったいないからと急にちまちま味わって食べだす子供みたいに、あと20年ないかもしれない命が惜しくなったんだ。

バカめ。
惜しんだって、無くなるときは確実に来るのだから、さっさとおいしさがわかるうちに食べておけばいいんだよ。
食べられなくなって腐らせる方が、よほどもったいない。
よし、今週中に晴れたところで行くぞ。

他人様の訃報というのは、こう使うのがたぶん正しい。

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はんだあゆみ
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