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子育てと不安

はじめての赤ん坊というのは、何をするのも怖い。

力を加えた方向に、どこまでも曲がってしまう関節。
ふにゃふにゃと力の入らない、頼りない筋肉。
こんなに小さいのになぜ動くのかと、不思議になる作り物のような指。
うっかりミスで、すぐに死んでしまう生き物。
抱きあげるのも怖かった。

その小さな赤ん坊にと、Tシャツタイプのロンパースを下さった方がいた。
太めの紅白ボーダーで、めでたさ炸裂の柄だ。
きっと悩んで選んでくださったのだろう。
可愛い。着せてやりたい。
それを着た写真を撮って、贈り主にお見せするのも礼儀だろう。

しかし、私はついにこの頭からかぶるロンパースを、新生児期の我が子に着せることができなかった。

なぜか?
着せるために、クリアしなくてはならないハードルが、高すぎたのだ。

折れそうな首を持ち上げ、ティッシュがかぶさっただけで呼吸が止まりそうな顔を身ごろの布で覆い、簡単に抜けそうな肩関節をバンザイさせて腕を通さなくては、このタイプの服は着せられない。
考えただけでクラクラとめまいがし、この子の命を危険にさらすわけにはいかないと、めでたいロンパースは袖を通さずにお蔵入りさせてしまった。

ビビりの育児とは、概してこのようなものだ。

考えすぎ、心配しすぎ、怖がりすぎるあまり、新しいことに手が出ない。
保守的な日々を過ごすうち、子どもが成長して、これまでのやり方では通用しないと知らせてくれる。

「ワシ、横抱き、いややねん」
「おっぱい足らへんで? もうちょいなんか食わせてや」

かくして、首の座った子どもは縦抱きを要求するようになり、消化管の準備が整った子どもは、親が食べているものに興味を持ち始める。

早め早めにと先回りして情報を集めなくても、子どもを見ていれば、その時、必要なことは子どもが伝えてくれる。ビビりながら育てるくらいでちょうどよかったのである。

歩行器、バンボ、スイングラック、スイマーバ。
子育てに便利そうなものは、溢れている。
けれど、発達とは全ての条件が整って、本人のタイミングでクリアしていくものだ。
筋力や感覚器官などの条件が整う前に、できるようにさせることの弊害はある、と思っている。

何より心配なのは、大人向けの商品は必ず企業によってユーザーの声が集められるのに、便利な育児グッズには、使っている赤ちゃんの声が反映されることはないというところだ。
評価するのは、使っている本人ではなく、使わせている親の声なのである。

ワンオペ育児の大変さはわかる。
私だって歩行器を使っていたこともあるので、子どもがご機嫌に長時間遊んでくれるグッズは、本当に助かるのも知っている。
発達に悪いから禁止!と言われると「私はこの子に、そんなに悪いことをしていたのか?」と傷つくし、反例を集めて噛みつきたくもなる。

でも、噛みつき先はそこじゃない。
どうして、子どもを一人でお風呂に入れなくてはならないのか、という社会や夫婦間の問題。
どうして、無理矢理座らせてでも離乳食を食べさせなくては、と追い立てられる気持ちになるのか、という自分の心に起因する問題。

そういう気持ちと向き合うことで、見えてくるものがある。
不安の正体がわかってくる。
それが子育ては親育て、と言われる所以なのだろう。
成長する子どもに引っ張られて、親も成長するしかないのが子育てなのだ。

向き合わずにそれを終えてしまうのは、本当にもったいない。

**連続投稿165日目**

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はんだあゆみ
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