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何度も似たような言葉が刺さる

Twitterを眺めていたら、プロ奢ラレヤーさんの、この発言が目に入った。

これは、私の言葉で言うと「判断を他人に委ねるな」という事だと思う。
この言葉に、なぜ、ハッとしたかというと、「あ、また忘れていた!」と思ったからだ。
何度も同じような言葉にハッとし、「あ、そうだった!」と思い出させてもらっている。

私は、ほうっておくと、「他人からどう見られるか」だけを気にして動いてしまうらしい。
幼いころから無意識に染みこんでいるため、自分ではよくわからない。
だから、こういうことがあると、
「ちがうちがう、そっちじゃない」
と、神様が教えてくれたのだ、と思っている。

一番最初にそれに気づいたのは、5年前の徳島だった。
知らない人ばかりが20人も集まった研修会場で、私たちは、いろんなワークをした。
私は、鬱からの回復途中だったのだけれど、自分ではすっかり回復した気になっていて、カラ元気で参加していた。
なので、「ちょっと協力して」とファシリテーターさんが言えば、真っ先に手を挙げてアピールし、ペアワークも積極的にこちらから「一緒にやろう」と声をかけたりしていた。

もう、その時点で正気じゃない。
全然回復してないし、全くさらけ出す気もないし、早く帰りたかったくせに、何を元気なフリしていたのか。

その時行われた複数のワークの中に、猫のワークというものがあった。
自分が猫になったつもりで、周りの受講生も全員猫だと仮定し、コミュニケーションを取ったり取らなかったり、自分で決めて自由に動いていい、というものだった。
大事なことは、猫になり切ることだけ。

私は、先頭を切って「にゃーん」と、広い会場の真ん中に四つ足で出て行った。
受講生たちは、それぞれ端っこで、誰ともコミュニケーションを取ろうとせず、ねたふりをしたり、日向ぼっこしていたり、出来るだけ一か所にうずくまって動かないようにしていた。(今考えると猫なんだから、当たり前だ)
動きがない、何も生まれない。
見かねたスタッフさんが、猫の一匹になって、私に近づいてくる。

私は、それを見て「この人はどうしたいんだろう?」と思った。
右へ行きたいのか、左へ行きたいのか。
仲良くしたいのか、嫌なのか。
こちらを視界の中心において、じっと見つめながらやってくるので、これは仲良くしたいんだろうと、すり寄っていくと大きな声で、威嚇される。
私は混乱したが、スタッフ猫は悠々歩いていく。

ワーク自体は、あちこちに巨大な猫がゴロゴロしている光景が見られる、平和なものだった。
しかし、この振り返りで私は、ぎょっとした。
関わったすべての猫たちと、自分が「何を考えてどう動いたのか」答え合わせをするのだが、私の答えが一人だけ異質だったのだ。
みんな
「私が、横になりたくて寝転んだ」
「僕は、暖かいところに行きたくて縁側に出た」
などと、自分を主語に話しているところへ、私だけが
「あなたが私と仲良くしたいんだろうと思って、近づいた」
と、自分以外を主語にしていた。
全てにわたってそうだったのに、それを指摘されるまで、全く気が付いてなかったことにも自分で愕然とした。

そうか、普段の私は、いつも、自分が消えているんだ。
だから、他人からの評価にぐらぐらしてばかりいるのか。

天啓を得た気分だった。

それ以来、何かあると、「ほら、またぐらついている」という指摘の言葉が、目に入ってくるようになった。
電車の車内広告だったり、見ている映画のセリフだったり、マンガの一コマだったり。
目に入るということは、まだ、出来てないからなんだろう。
ひっかかるのは、それを思い出すからなのだろう。

うまくできているなあ、と思う。
気付かなくなるまで、自然にできるようになるまで、何度でも何度でも、同じことを教えてくれるのだ。

**連続投稿684日目**


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はんだあゆみ
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