反・自殺論考2.22 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生
外的と内的
何度も自分の命を絶とうと考えたのは、
「完全に外的な理由から」1919年11月16日
自殺の思いに取り憑かれるほど不幸なのは、
「自分の卑しさ、下劣さによるもの」1920年5月30日
という内外の変化についても一通り語っておこう。
この時期のヴィトゲンシュタインは、教員免許の取得を目指し、ウィーン市内の養成校に通う一学生だった。
と入学から半年後、捕虜収容所で知り合った友人の教師、ルートヴィヒ・ヘンゼルに宛てて書いている。
この「同輩たち」とは、同じ学校で共に学ぶ生徒たちのことであり、復員して財産的自殺を遂げ、教師になるべく養成校に入学した当初から、ヴィトゲンシュタインは彼らとの関係に悩んでいた。
ついでに言えば、教師たちとの関係にも悩んでおり、それでも一悶着あったとか、何か危害を加えられたという記録もないため、それこそ「内的な理由から」彼は悩んでいたと言えようし、事情に通じたヘンゼルに言わせると、関係が悪化した(とヴィトゲンシュタインが思い込んだ)原因は持ち前の神経過敏症であり、つまりは大学でも戦場でも周囲にイライラし、軋轢が生じてしまう彼の性癖が露見しただけ、とも言える状況ではあったのだ。
が、事実がどうあれ本人は、以下のような手紙を書き連ねるほど苦しんでいたのである。
こういう境遇と精神状態の渦中に『論考』の出版交渉は進められ、まずは「外的な理由」から自殺することをヴィトゲンシュタインは考え、やがて「内的」に落ち込んで自殺の思いに取り憑かれた、ということになる。
補足しておくと「外的」に対する「内的」というのは、単に彼の気分が沈んでいることを意味するのではなく、不幸な境遇の原因が己自身にあることを認められない自分の卑しさ、下劣さに打ちのめされている精神状態を意味する。
時々そうした気分に襲われるのは、
と同僚兵士に悩まされて戦時中に書きつけた頃から変わっていなかった。
変わったことと言えば、自分の下劣さを認め、その克服に向けて繰り返し努力し、そのための行動を実践する人間こそが、本当の信仰を持った宗教的な人間なのだ、という論点のすり合わせをエンゲルマンとの文通で実践していたことだろう。
なのに口先だけ信仰に縋り、行動では実践できない自分の卑しさ、下劣さにも悩んでいたのだ。