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反・自殺論考2.24 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生
告白
ただ、ヴィトゲンシュタインが行う「告白」という行為の種が、この時期に植え付けられたと考えるのは、突飛な発想でもないかもしれない。
「ずっと僕は命を絶とうと考えてきました。その思いに今なお取り憑かれています」
というヴィトゲンシュタインの手紙に、エンゲルマンは二十日後の6月19日、彼らしい誠意ある長い返信を送っているが、仕事について悩んだ彼がふらりと田舎へ出向き、そこで何をしたかをこう述べている。
私は一種の「告白」をしたのです。自分の人生の出来事を、数時間の間に可能な限り詳細に、一つ一つ思い出していくことを。その都度、どう行動すれば良かったのか、自分の中で明確にするようにしました。このように全体像を把握することで、混乱していた像が非常にシンプルになりました。
ここで改行し、エンゲルマンは「私は翌日、得られた気づきを元に、将来に対する自分の計画と意図を刷新しました」と続けるが、これこそ正にヴィトゲンシュタインが十六年後やることなのだ!
という話よりも、今ここで注目すべきは、エンゲルマンが続けて書いた文面の方である。
あなたが自殺念慮について書いていることについてですが、私の考えはこうです。──そのような思いには、恐らく他のものと同様、崇高な動機がありうるのでしょう。しかしながらこの動機がこうした形で、つまり自殺念慮という形で表現されるのは、確かに誤りです。自殺は確かに誤りなのです。人間は生きている限り、完全に失われることはありません。それでも人間が自殺に駆り立てられるのは、自分が完全に失われるという恐怖からです。これまで話してきたように、この恐怖は常に杞憂です。この恐怖の中で人間は自分がしうる最悪のことをしてしまい、自分が失われることから逃れられるはずの時間を自ら奪ってしまうのです。
自殺者の心理を、火事のビルに閉じ込められた時の状態に喩え、
「炎が押し迫れば、飛び降りる恐怖の方がまだマシに思える。飛び降りるのは飛び降りたいからではなく、火が恐いからだ」
と看破した小説家、デヴィッド・フォスター・ウォレスの言葉が思い出される。
出されるのは、彼が『ヴィトゲンシュタインの箒』という作品を発表しているからなのは語るまでもないが、まさか彼が八十八年後に自死を遂げることなど、ヴィトゲンシュタインが知る由もないのは沈黙するまでもない。
エンゲルマンの手紙の日付から僅か二日後、こうヴィトゲンシュタインは返信した(※改行はママ)
僕は今、人生で何度か経験したことのある非常に恐ろしい状態にあります。ある特定の事実を乗り越えることができない状態です。
この状態が悲惨であることは分かっています。しかし僕が思うに手立ては唯一つ、その事実に打ち克つことです。しかし今の状態は、泳げない人間が水の中に落ちて、手足をバタバタさせながら、もう浮かび上がることができない、と感じている時の状態なのです。これが今の僕の状態です。自殺が常に卑劣なものであることは知っています。人は自分の破滅を望むことはできないし、自殺をしようと一度でも考えたことのある人なら誰でも、自殺は常に自分に対する不意打ちだと知っています。しかし自分の不意を打たざるをえないことほど忌まわしいものはありません。
もちろん全ては、僕に信仰がないことに起因しています。
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