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海老を天秤にかける

両親と、高校生の私と、小学生の妹弟の5人家族。週末に家族みんなで郊外のイオンに出かけ、レストラン街の回転寿司で昼食を済ませ、ああ楽しかったの帰路の車中で、異変は起きた。

最初は、喉の奥に感じる少しの痒みと気持ち悪さ。違和感を感じつつ、食べ盛りのJKゆえ食べ過ぎの自覚は十分あったので、車酔いでもしたかと目を瞑る。母と妹弟のおしゃべりを遠くに聞きながら、家に着く頃には、気管がきゅっと狭まったような息苦しさがあり、帰宅とともにベッドに倒れ込んだ。大汗をかきながら「これ以上は苦しくなるなよ」と念じて耐えるうちに、結局その日は時間とともに症状は落ち着いたので、その時点では認めていなかった。まさか、寿司の中で甘エビが一番好物な私が、海老アレルギーになるなんて。神様って残酷ね。

確信に変わったのは、自主的な実験によるアレルギー検査(よい子は真似しちゃダメ!)として、次にお寿司を食べる機会に、懲りずに甘エビを少しだけ食べてみたとき。今度は食べてすぐに、同じような気持ち悪さと苦しさが襲ってきた。その後も諦めの悪い私は、火が入ってたら大丈夫かな?→エビフライを食べてみる、新鮮だったら大丈夫かな?→ちょっと高い寿司屋で誘惑に負けて生海老を食べてみる、など我が身を犠牲にして実験(よい子は絶対に真似するべからず)を重ねた結果、導き出した診断は「生海老はNG、火が入った状態で少量や、海老のエキスが入った出汁などはぎりOK」という診断である。

というわけで、海老アレルギーになって十数年。最初こそ、好物だった海老が食べられないのが辛く多少やんちゃに争ったものの、今では目の前に海老を置かれても全く食べたいという気持ちが湧かないまでになった。それどころか、見るだけでちょっと痒くなる感じさえする。体と脳は学習するのだ。

唯一ちょっと厄介なのは、海鮮が売りの居酒屋や、エスニックや中華などの海老が使われがちなお店に行く時。一人ずつ選ぶ感じではなく、大皿をシェアするスタイルの。
多くの人にとって、海老はテンションの上がるスター性のある食べ物だ。メニュー表を開いて海老の文字があれば、「わ!これ頼もう!」となりやすい。そして、エビチリなどエビが混ざっている状態ならまだしも、海老の天ぷらやフライなどという一本ものは、「誰が何本食べた」がわかりやすい。手をつけずにいると、気を遣える優しい人が「遠慮せずに食べなよ」などと皿を寄せてくれて、言わざるを得なくなって「実は海老アレルギーで」と言うと、大抵「え!知らずに頼んじゃった!ごめん!!」となる。必死に「他のもの食べてるから全然大丈夫です!」と言っても、海老を食べれない人に向けられる目線は「不憫」を煮詰めに煮詰めたような同情の類だ。本人はもう、「食べたいのに食べれない」と言うステージはとっくの昔に卒業しているのだが、それはなかなか伝わらない。海老食べれない=かわいそうの公式、強し。

海老アレルギーとして十数年も生きてくれば、もうそろそろ玄人と言っても過言ではないだろう。これまで、あらゆるものを「海老抜き」で頼んできたが、先日一人で立ち寄った定食屋さんで、ヒリヒリする駆け引きを経験した。年季の入った調理コートに身を包んだ職人の威厳漂う店主と、長年連れ添ってきたのであろうエプロン姿の女性(おかあさんと呼ばせていただく)が、夫婦で細々と続けているような味処。昼のメニューは、刺身・天ぷら・焼き魚・唐揚げ、それぞれの定食4品のみ。
暖簾をくぐると同時に人差し指を立てて一人であることを伝えると(これも慣れたもの)、店主は「カウンターでいいかな」と声をかけてくれて、端の席に腰を下ろす。もうこの店では何度も繰り返されてきたからくり時計のようなルーティーンで、おかあさんがお冷とおしぼりを持ってくる。

メニューを見て迷いなく天ぷらの気分だった私は、「天ぷら定食、海老抜きにしてもらえますか?」と聞く。メニュー表には”天ぷら定食”の文字しかなく、天ぷらの盛り合わせの内容までは書いていなかったが、天ぷらの盛り合わせというものには九分九厘海老が含まれるものだ。

海老抜き対応ができる場合、次に返ってくるのは「〇〇(キスとかアナゴとか他の魚類)は食べれますか?」と言う気の利いた一言。しかし、おかあさんから返ってきたのは、気の利いた返しでも、「海老抜きはできない」でもなく、予想外の一言だった。

「野菜だけ、でいいね?」

よく、ない。
海老抜き、と、野菜だけ、はイコールじゃない。
私べつにベジタリアンじゃないし。野菜も好きだけど、やっぱり天ぷら定食には魚類も期待してる。というか魚類が、メイン。でも、通常メニューにない対応をお願いしているという肩身の狭さから、「いい、です。」と言ってしまう弱さよ。

「他のものに変えれますか?」って言えばよかったのかな、でも「野菜だけでいいね?」のお母さんの言い方が強めだったし、言えなかったなあ、ともじもじ後悔しながら、おかあさんが店主に「天ぷら定食、海老抜き!」とオーダーを伝えるのを聞く。

そうして待つこと20分ほど。強めおかあさんが目の前に運んできたのは、衣を纏った個性豊かな船員たちがぎゅうぎゅうに乗り込む海賊船なみに豪勢に盛り付けられた天ぷら定食。すかさずカウンターの向こうから「キスとイカ、入れといたから」とぶっきらぼうに、店主の声が添えられる。
キスは2枚、イカもゲソにミミにと他にも数種類あるし、脇役のはずの野菜は、茄子・ピーマン・人参・椎茸・カボチャ…これなら”野菜だけ”でも十分なほど。

そこで、私は思ったのである。

海老の価値、高!!

野菜の量は、ノーマルの海老あり天ぷら定食でも代わらない店主のサービス精神によるものだとして。

海老1本あるいは2本を天秤にかけると、キス2枚、イカゲソ、イカミミ(他にもイカの胴体部分も入っていた)に匹敵するんか。海老にもう魅力を感じなくなった私にとって、今目の前にある天ぷら盛り合わせは、むしろ海老アレルギーであることによって得している気さえするぞ!(そもそも海老アレルギーになったから海老に魅力を感じなくなったわけで、論理崩壊してる気もするけど)

だから何って話なんだけど、まず一つに、海老アレルギーであることで得することもあるじゃんという発見(やっぱり論理おかしい)。
そして二つ目に、これから海老抜きをオーダーするときは、この店は抜いた海老の代わりに何をどれだけ当ててくるか、つまり海老の価値をどれほどと見ているか、という視点で、海老抜きメニューが運ばれてくるまでの時間を楽しむ、という玄人海老アレルギーの嗜み方の発見した、というご報告。

海老を天秤かけてその価値を測る海老アレルギーならではの嗜み方。
以降人々はそれを、(海老天”丼”ならぬ)「海老天秤」と呼ぶこととしたのである。

(してない。)

海老天秤と思いついて言いたかったためだけにかいた、エッセイにお付き合いいただきありがとうございました。



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