ただ生活をしているだけで悲しみはそこここに積もる

表題は新海誠作品、秒速5センチメートルの、大人になった遠野貴樹のモノローグ。ふとしたときに見たくなる好きなシーン。

「ねえ、秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード」っていうタイトルにもなっているセリフは有名だけれど、
それ以上に、「ただ生活をしているだけで悲しみはそこここに積もる」この言葉が、一連のシーンが凄く頭に残る。恐らく僕だけでなく多くの視聴者にとっても。

ただ生活をしているだけ
まず、ここが最初のポイント。
劇的な日々を送っている必要はない。ただ生活しているだけ、という言葉は基本的に誰の状況にも当てはめることができる。
この前置きがあってこそ、この先に続く言葉が、僕らのような作品の登場人物足りえない僕らにも届くようになる。
「ただ生きているだけで」ではなく、「生活」という言葉が、より凡なる表現として、文字通り生活感があって普通の人の心にも浸透する。

次に、「そこここ」という表現。
これ、ぶっちゃけ羅生門と秒速5センチメートルくらいでしか見ない気がする。
聞き慣れない表現だけど意味はなんとなく分かるよね。文字通り、そこやここ。あっちやこっち、そこらへんにみたいな感じでしょう。耳慣れない表現だけど、フレーズの中では不自然ではない。むしろ自然で滑らかに響く。ここで、「あちらこちら」とかだとなんか回りくどいようで、フレーズの流れを邪魔してるような気がする。
耳慣れなさで印象深くさせながら、全体のフレーズを美しく流している。絶妙な言葉選び。

最後にして一番のポイント
「悲しみが〜積もる」普通に生活していて、積もるものと言えば、当然、埃だ。そこに対して、ここでは「悲しみ」を入れている。
汚れのようにべったり付いているわけではなく、埃のようにひっそりと積もっているというのがしっくり来る。
大きく汚したり散らかしたりしなくても、普通に掃除をしていても、どこかしらには静かに埃が積もっているように、何事もなく生活しているだけでも悲しみは静かに、けれども確かに、積もっていく。何なら使ってない部屋にこそ埃溜まっていく。
埃の被った昔のアルバムには当時の旧友との距離という悲しみが積もっている。趣味の道具に積もった埃は、生活に忙殺されて失った楽しみや活力が悲しみとして積もっている。すごくしっくり来るなと。そんな感じ。


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