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紅茶派の肩身の狭さ

ひっさしぶりのnote。ただ急に書きたくなっただけ。就活日記の続きはまたいずれ気が向いたら書こうと思う。

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「犬派VS猫派」といった好みの比較は、どっちが好きだって人それぞれの自由なのに、敢えてグルーピングすることで盛り上がる効果があるように思う。

ふと私は思った。「コーヒー派VS紅茶派」の対決ってあんまり周りで話題にならないなあ、と。

私は完全なる紅茶派だ。だからこそ、コーヒーに対してライバル意識があるのかもしれない。

というのも、私が住む日本では、紅茶派がマイノリティで、コーヒー派が圧倒的に優勢だからだ。多数のコーヒー派に埋もれる人たちは(「埋もれる」という表現が私のコーヒー派への嫉妬に由来する皮肉を表現してしまっているかもしれないが、ひとまず見て見ぬふりをしよう)紅茶派がいることすら知らないくらいの可能性があり、コーヒーの一択であると考えるが故に、コーヒーと紅茶を同じテーブルに並べて考えることをしないだろう。

いっぽう私含む紅茶派は、食後のアフタードリンクを複数人で頼む際に、自分一人だけが紅茶を頼むという状況を何度も経験するが故に、些かの疎外感(少々大袈裟だが)を感じると同時に、紅茶の勢力拡大を願うようになる。「みんな盲目的にコーヒー選んでない?」とか、「紅茶の良さを知ろうとしてなくない?」とかおせっかいなことを考えてしまう。

疎外感を感じる理由は他にもあって、それは「コーヒーが飲めないと大人じゃない」「ブラックが飲めるのは大人な証拠」といった風潮がよくわからないからだ。「コーヒーが飲めたら大人って誰が決めたの?」とか、「ブラックの美味しさって絶対的なの?」って思ってしまう(笑)。(私は少しばかりひねくれている節がある)

ここまで言ってしまうと、私が紅茶を愛する理由と紅茶の魅力を説明しないと説得力に欠けそうであるから、簡単に私の紅茶への愛を紹介する。

私が100対ゼロで紅茶派に傾いたのは、トルコへの留学が大きく影響しているように思う。紅茶大国のトルコで7ヶ月ほど生活した結果、帰国してからも紅茶を飲む習慣がついた。トルコ人はバルダックという小さめのグラスで紅茶を飲むのだが(このグラスがまた美しい)、朝・仕事中・夜などで一日に10杯前後飲むという人がざらにいる。

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トルコでの紅茶は日本のお店で出てくるものより少々渋く、味が濃い。トルコ紅茶に慣れた後、帰国してすぐの日本の紅茶が少々物足りなく感じたほどだった。飲み方は、トルコではストレート一択と言ってもよい。ミルクティーは街でほとんど見かけたことがなく、アレンジを加えるとすれば砂糖か蜂蜜を加えるくらいだろう。(スーパーでレモンティーのペットボトルを買った記憶はあるが、トルコのレストランでは日本でお馴染みの「ミルクかレモンどちらにしますか?」という質問はされたことがない気がする)

ストレート紅茶の茶色にも橙色にも赤色にも分類できないあの独特な色味と、透き通った感じの美しさに魅了され続けた私は、帰国後も紅茶をストレートで楽しむことが多くなった。留学前は砂糖やミルクを最初に入れるのが私の中で定番だったが、今では紅茶を飲むときはまず何も加えずに香りと味を楽しみ、気分によってミルクや糖類を追加して、一杯を目一杯楽しんでいる。

まだまだ紅茶については話し足りないが、一旦ここらへんに留めておこう。

そんなこんなで何が言いたいかって、コーヒー派の人には紅茶派がいるってことも頭に入れておいてほしいということだ。コーヒーか紅茶の二択が多いアフタードリンクをお店で頼む時に、「紅茶で」と言う人に対して好奇な目を寄せたり、「コーヒーじゃないんだ」っていう驚きを醸し出すことはなるべくなら避けていただきたいということだ。そして何より紅茶を愛する同志のみなさん、ぜひこれからも紅茶を愛していこうじゃないか、ということだ。

卒論執筆中であるのと、最近まで選挙のニュースを目にしていたことが影響したのか、文体が堅く、最後の段落なんかは演説チックになってしまったようだ。さて、紅茶でも飲んで一息するか。

※コーヒー派に対して怒っているだとか喧嘩を売っているのではなく、あくまで紅茶の愛を表現したいとの動機で書いた次第であることをご了承いただきたい。

ではまた。

2021/11/07 モロヘイヤ

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