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柳田國男『遠野物語』現代語訳〈天狗・川童・ザシキワラシ・雪女〉【VTuber 諸星めぐる】
めくるめくめぐるの世界へようこそ、書店員VTuberの諸星めぐるです!
この冬休みは、『遠野物語』の現代語訳とちょこっと解説をしていこうと思います!
『遠野物語』の解説アーカイブはこちら
天狗
・二九
鶏頭山(けいとうざん)は早池峰山(はやちねさん)の前面に立つ峻峰(しゅんぽう)である。
麓(ふもと)の里では前薬師(まえやくし)ともいう。
ここには天狗が住んでいると言われ、早池峰(はやちね)に登る者も決してこの山に足を踏み入れることはなかった。
山口のハネトという家の主人は、佐々木さんの祖父と幼馴染みである。
この男はたいへんな無法者で、鉞(まさかり)で草を刈り、鎌で土を掘るなど、若いときは乱暴な振舞いが目立つ人だった。
あるとき、人と賭けをして、ひとりで前薬師に登った 。
帰ってから語ることには、 `頂上に大きな岩があって、その岩の上に大男が三人いて、その前にたくさんの金銀を広げていた。
「自分が近寄るのを見て、男たちは顔色を変えて振り返ってきた、その眼光はすごく恐ろかった」と言う。
「早池峰に登ったが、道に迷って来てしまった」と自分が伝えると、 「ならば送ってやろう 」と先に立って歩き、麓に近いところまで来ると。
「眼を塞げ 」と言われた。
言われた通りに目を塞ぎ、しばらくそこに立っている間に、たちまち異人は見えなくなった 。
原文
鶏頭山は早池峰の前面に立てる峻峰なり。麓の里にては又前薬師とも云ふ。天狗住めりとて、早池峰に登る者も決して此山は掛けず。
山口のハネトと云ふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。極めて無法者にて、鉞にて草を刈り鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞のみ多かりし人なり。
或時人と賭をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、 頂上に大なる岩あり、其岩の上に大男三人居たり。前にあまたの金銀をひろげたり。此男の近よるを見て、気色ばみて振り返る、その眼の光極めて恐ろし。早池峰に登りたるが途に迷ひて来たるなり。と言へば、然らば送りて遣るべし。とて先に立ち、麓近き処まで来り、 眼を塞げ 。と言ふままに、暫時そこに立ちて居る間に、忽ち異人は見えずなりたり。と云ふ。
ひとこと諸星
無法者の説明の具体例がピンとこないのも含めて、結構好きな話です。
・六二
和野(わの)村の嘉兵衛爺(かへえじい)は、ある夜山中で小屋を作る暇がなく、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ縄を自分と木のまわりに三周引きめぐらし、鉄砲を縦に抱えてまどろんでいた。
深夜、物音がすることに気づき、見ると大きな僧の姿をした者が赤い衣を羽根のように羽ばたかせて、その木の梢に覆いかかった。
嘉兵衛爺が 、えいっと銃を撃つと、やがてまた羽ばたきして空中を飛び去っていった 。
このときの恐ろしさも尋常ではなかった。
前後三度もこんな不思議に遭遇し、そのたび鉄砲をやめようと心に誓い、氏神に願かけなどしたが、やがて再び思い返して、老いるまで猟人の生業を捨てることはできなかった。と、よく人に語っていた。
原文
又同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとま無くて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ縄をおのれと木のめぐりに三囲引きめぐらし、鉄砲を竪に抱へてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心付けば、大なる僧形の者赤き衣を羽のやうに羽ばたきして、其木の梢に蔽ひかかりたり。すはやと銃を打ち放せばやがて又羽ばたきして中空を飛びかへりたり。此時の恐ろしさも世の常ならず。
前後三たびまでかかる不思議に遭ひ、其度毎に鉄砲を止めんと心に誓ひ、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思ひ返して、年取るまで猟人の業を棄つること能はずとよく人に語りたり。
ひとこと諸星
みんな大好き、話がうまい嘉兵衛爺の話です。山で起きたやべえことに負けない姿が、彼と山との近さを感じられてめちゃ良い。
・九〇
松崎村(まつざきむら)に天狗森という山がある
その麓にある桑畑で、村の若者の何某という者が働いていたところ、ひどく眠くなったので、しばらく畑のあぜに腰かけて居眠りしようとした。
そのとき、真っ赤な顔の極めて大きな男が出てきた。
若者はお調子者で、ふだん相撲などが好きな男なので、この見慣れぬ大男が立ちはだかって上から見下ろす様子が面白くない。
思わず立ち上がって 「お前はどこから来たんだ 」と訊いたが、何の返事もしないので、 ひとつ突き飛ばしてやろう。
と思い、力自慢にまかせて飛びかかり、手を掛けたと思うや否や、かえって自分の方が飛ばされて気を失ってしまった
夕方に正気にもどってみれば、当然その大男は居ない。
家に帰ったあとに、人に事の次第を話した。
その秋のことである。早池峰(はやちね)の麓へ、村人大勢と共に馬を曳いて萩を刈りに行き、さて帰ろうとする頃になってみると、この男の姿だけが見えない。
一同驚いて探してみると、深い谷の奥で手も足も一つ一つ抜き取られて死んでいたという。
今から二・三十年前のことで、この時のことをよく知る老人が今も生きている。
天狗森には天狗が多くいるということは昔から人の知るところである。
原文
松崎村に天狗森と云ふ山あり。其麓なる桑畑にて村の若者何某と云ふ者、働きて居たりしに、頻に睡くなりたれば、暫く畑の畔に腰掛けて居眠りせんとせしに、極めて大なる男の顔は真赤なるが出で来れり。若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面悪く思ひ、思はず立上りて 、お前はどこから来たかと問ふに、何の答もせざれば、 一つ突き飛ばしてやらん。と思ひ、力自慢のまま飛びかかり手を掛けたりと思ふや否や、却りて自分の方が飛ばされて気を失ひたり。夕方に正気づきて見れば無論その大男は居らず。家に帰りて後人に此事を話したり。
其秋のことなり。早池峰の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩を刈りに行き、さて帰らんとする頃になりて此男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死して居たりと云ふ。今より二三十年前のことにて、此時の事をよく知れる老人今も存在せり。
天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり。
ひとこと諸星
天狗の仕業の成り立ち方が垣間見れる話。
急に怖い話するやん……ってなるけど、これは当時の人にとって「怖い話」のジャンルじゃないんだろうなって遠野物語読んでると思う。
河童
・五十五
川には河童が多く棲んでいる。猿ヶ石川(さるがいしがわ)は特に多い。
松崎村(まつざきむら)の川端(かわばた)の家には、二代続けて河童の子を身ごもった者がいる。
生まれた子は切り刻んで一升樽に入れ、土中(どちゅう)に埋めた。
その姿は極めて醜く奇妙であった。
女の婿の里は新張村(みはりむら)の何某といって、これも川端の家である。
その主人が人にその始終を語った。
その家の者一同が、ある日畑に行って夕方に帰ろうとすると、川の水際にうずくまってにこにこと笑っている女がいた。
次の日は、昼休みにまた同じ出来事があった。
このようなことが何日も続くうちに、その女のところへ村の何某という者が夜な夜な通っているという噂が立った。
はじめは、婿が浜の方へ荷駄(にだ)を運びに行った留守のときだけ窺っていたが、しまいには、婿と寝ている夜にまで来るようになった。
こいつは河童のしわざだろうという噂がだんだん高くなったので、一族の者が集まってこれを守ったものの、なんの甲斐もない。
婿の母も行って娘のそばに寝たりもしたが、深夜にその娘の笑う声を聞いて、
さては来ているな。と悟りながらも、身動きもとれず、人間にはどうにもしようがなかったのだ。
そのお産は極めて難産であった。
ある者が言うには、 「馬の餌桶に水をいっぱいにして、その中で産んだら楽に産まれるだろう」とのことだったので、これを試したところ、簡単に生まれた。
生まれた子には手に水掻きがあった。
この娘の母もまた、かつて河童の子を産んだことがあるという。
「二代や三代の因縁ではない」と言う者もいた。
この家も如法(にょほう)の富豪の家柄で、何の某という士族である。
村会議員をしたこともある。
原文
川には川童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端の家うちにて、二代まで続けて川童の子を孕みたる者あり。生れし子は斬刻みて一升樽に入れ、土中に埋たり。その形きわめて醜怪なるものなりき。女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞まりてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々通うという噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺いたりしが、のちには婿と寝たる夜さえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽に水をたたえその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻あり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法の豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。
ひとこと諸星
悲しい話。「河童の仕業」を人に語らなければならなかった名家も、生まれた河童も。
信ぴょう性ではなく、人と河童の近さがよくわかる話。
ザシキワラシ
・十七
旧家にはザシキワラシという神の住む家が少なくない。
この神は、多くは十二・三歳くらいの子どもの姿である。
ときどき人に姿を見せることがある。
土淵村(つちぶちむら)大字飯豊(いいとよ)の今淵勘十郎という人の家でのこと。
近頃、高等女学校にいる娘が休暇で帰っていたある日、廊下でばったりザシキワラシに遇ってたいへん驚いたことがあった。
それは、男の子であった。
同じ村・山口の佐々木氏の家では、母親がひとり縫物をしていたところ、隣の部屋から、紙のがさがさという音がした。
この部屋は家の主人の部屋で、そのときは東京へ行って不在だったので、怪しいと思って板戸を開いて見たが、何の影もない。
しばらくの間座っていると、今度はしきりに鼻を鳴らす音がしたので、さてはザシキワラシだな。と思ったそうだ。
この家にもザシキワラシが住んでいるというのは、ずいぶん以前から言われていた。
この神の宿り給う家はお金に困らないという。
原文
旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これは正しく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。しばらくの間坐りて居ればやがてまた頻りに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。
ひとこと諸星
柳田國男大好きザシキワラシ。
特に、この話は金持ちになったエピソードではないのもポイント高い。
・十八
ザシキワラシは女の子の場合もある。
同じ山口の旧家・山口孫左衛門という家には、女の子の姿の神が二人いることが長く言い伝えられていた。
ある年、同じ村の何某という男が町から帰ったとき、梁のある橋のほとりで見慣れぬ二人のかわいい娘を見かけた 。
なんとなく困った様子でこちらへ来る。
「お前たちはどこから来た」と聞くと、
「おら山口の孫左衛門のところから来た」と答える。
「これからどこへ行くのか」と聞けば、
「どこそこ村の何某の家に」と答える。
その何某は、やや離れた村にある今も立派に暮らす豪農であった。
「さては孫左衛門のおわりだな」と思ったが、それからあまり時を経ずに、この家の主従・二十数人、キノコの毒にあたって一日のうちに死に絶え、七歳の女の子ひとりが残ったが、その娘もまた年老いて子がなく、近頃病で亡くなった。
原文
ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴みなれざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来たる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸きのこの毒に中あたりて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近きころ病やみて失せたり。
ひとこと諸星
ザシキワラシはまだ配信で取り上げてないので、まだ解説はしないけど
この話のように「だから、没落したんだよ」の因果の説明に登場することも無視できない。
雪女 一〇三
小正月(こしょうがつ)の夜、または小正月でなくても、冬の満月の夜は雪女が出て遊ぶという。
子どもを大勢引き連れて来るという。
里の子供らは、冬は近辺の丘に行き、そり遊びをして、楽しさのあまり夜になることがあった。
しかし十五日の夜に限ってはいつも「雪女が出るから早く帰れ」と戒められるのである。ただ、実際に雪女を見たという者は少ない。
原文
小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。
ひとこと諸星
遠野の雪女はかなり精霊じみている。
子どもへの教訓として残っているに過ぎないのがかなり面白い。
おわり
いかがでしたでしょうか。
この現代語訳の朗読がYouTubeにて投稿されています。
(現代語訳は意訳も誤訳もあるとおもいます、あしからず!)
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それでは皆さん、さよなら×3