現代音楽を準備する

ジョナサン・ノット指揮、東京交響楽団のライブ配信を聴きました。

配信プラットフォームがニコ生だったので、コメントの量のすごいこと。

1曲目のデュティユーの時のコメントで、映画やゲームの情景が浮かんでいる方が多いようだった。

デュティユーがラスボス!とか考えてはいなかったであろうことは分かるので微笑ましい気持ちだったが、無調系サウンドもすっかり市民権を得たのだなと納得。

今後の作曲家たちは色々とやっても受け入れらる素地があるのだから、腕の見せ所ということになる。

後半のモーツァルトレクイエム(フィニスィー版)は、派手に手を加えたラクリモーサ以外は落ち着いて聴けるレベルでの手入れだった。ただ、オケの鳴りが結構違うような気もしました。


演奏は、最初からラクリモーサまでをノットは攻めにでた演奏をした。

テンポも速かったが、それよりも感情表現が強く、オペラのようだった。19世紀にはハイドンやモーツァルトのミサ曲は、オペラのようだということで批判されたことを思い出しながら、このような表現に共感した。
しかし、ラクリモーサが終わったところで、チーンと入り、ムードは一点。

そこからの演奏は正調宗教音楽になり、表情もテンポもかなり落ち着き(それでも速め)、世界が変わってしまった。

これはジャスマイヤーの部分だからかなと思いつつ、うーんこうなるとつまらんなぁと思ったところで、なんとリゲティのLux Aeternaが始まった。

衝撃!

しかし、どうしたことか、無調の嵐もそこまで違和感がなく、ま、ありかなと思う程度だった。

終わるとレクイエムの終楽章が始まり、曲は無事に?終了した。

今回は、デュティユー→モーツァルト→ジュスマイヤー→リゲティ→モーツァルトと聴いて、驚くほど違和感がなかった。それは、我々が、リゲティの無調と表現主義的手法を聞く準備ができていたからであろう。それを準備したのは、デュティユーとレクイエムの前半の演奏であった。そしてジュスマイヤーで一息ついたところでリゲティが登場したわけだが、それを驚きをもって迎えたとしても、サウンド的にはありえないと感じるようなことがなかったのである。

これはプログラミングの妙だけではない、演奏様式もまた、そのような効果に大きく寄与したのである。
ジョナサン・ノットは、まさに才人。あの流麗な指揮とは裏腹の、エッジの立った頭脳の持ち主である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?