高校3年生が死恐怖症を克服した話
少し昔の話をしようと思う。
過去最長の記事になってしまったので、気乗りしない方はブラウザバック。このリンクを踏んだのも何かの縁、暇つぶしにでも読んでやるかという方は、つまらないものですが、お口に合いますかどうか。
高校3年生の夏。受験生になったものの完全には受験モードになりきれず、学校に行ってやることといえば普段と変わらず友達とどうでもいい話で爆笑することだった。
そんなある日、一人の親しい命がこの世を去った。一週間も経たないうちに再び、親しい命が去った。突然の重い話で申し訳ないが、暗い話をしたいわけではなく、最後は明るく締まるので許してほしい。
しばらくの間は、毎晩泣いていた。悲しくて泣いている側面もあっただろうが、それよりも、複数の他者の死は一度に抱えきれるストレスを超過していて、泣くのはそのストレスを解消するためだと思いながら泣いていた。狂いそうになるのをどうにか鎮めようという本能だったのかもしれない。
しかし一度、鎮め切れずに発狂した。正確には、発狂しかけた。一人で風呂場に入り、シャワーを浴び始めたとき、直感的に「来る」と思った。次に「まずい、逃げなきゃ」と思った。だが、逃げ切れなかった。
『死んだらどうなるんだろう?』
来てしまったのは、その”問い”だった。問いを認識した途端、鼓動が速まり、呼吸が浅くなる。音も聞こえなくなり、視野も狭くなり、頭の中はその問いで埋め尽くされていった。
死んだら、身体が無くなる。自分以外の人も、いつか居なくなる。地球も、いつか消える。宇宙も、いつか無になる。結局、何も残らない。だったら、どうして生きている?最後の最後には、この世界は自分よりも、自分の体細胞よりも、体細胞を構成する分子よりも小さい、無になる。だったら、何のために生きている?何もかも、無意味なんじゃないか?
想像だけは世界の一層外側まで辿り着けてしまうことが嫌になり、どうしようもなくシャワーを止めた。とにかく誰かに安心させてほしいと思った。友達、家族、先生、好きな芸能人。自分の心の拠り所を片っ端から思い浮かべた。しかし、誰を思い浮かべても駄目だった。結局みんな自分と同じ、いつか消える儚い存在でしかなかった。どんなに親しい他人も、結局は他人で、魂のレベルまで自分と共にある存在など居ない。どんなに深く他者と交わろうと、自分は最後まで孤独でしかない。絶望で思考が止まった。恐らく本能が、これ以上考えるのは危険だと告げていた。
この問いに初めて直面したのは、幼稚園に通っていた頃だった。眠ろうとしてふと死の恐怖が頭をよぎり、泣きながら母親に助けを求めた。そういうとき、母親はいつも「死ぬのが怖いのは、賢くなっている証拠だ」と言っていた。幼い自分は「へぇそうなんだ、じゃあ良いか」と安心して、あやされるままにすやすやと眠ったものだった。
小学校に進級してからは、「賢くなっている証拠」という言葉では安心できなくなった。何度も同じ問いを繰り返すうちに、それまで漠然としていた死のイメージが、身体の消滅や地球の滅亡、宇宙の最期という具体的な形をとるようになっていった。そのうち、問うこと自体が怖くなった。最終的には、『死んだらどうなるんだろう』という問いが脳裏に浮かんだ瞬間、逃げなければいけない、他のことを考えなければいけないと思うようになった。そうして逃げ切れたときは決まって、いつまで怯えることになるんだと絶望しつつ、成長すればいつか怖くなくなるはずだと信じていた。
…信じたまま、高校3年生になってしまった。時が経っても、恐怖は恐怖のままだった。それどころか同じ問いを繰り返しすぎて、『死んだらどうなるんだろう』という問いが脳裏に浮かぶより前に、問いが来ることを直感し、逃げなければと思うまでになってしまっていた。そしていつもは逃げ切っていた。しかし、あの日は問いとの距離が近く、そして問いから逃げる力が心に残っていなかった。
こうして今まで避けていた問いに久々に向き合い、案の定、絶望で打ちのめされた。こうなることは分かっていた、だから向き合いたくなかった。何度絶望すればいいんだ、いつまで恐怖すればいいんだ。そう思うと、一周回って腹が立ってきた。それはもう面白いくらい腹が立ってきた。この状況でこの感情を抱くのは初めてだと思い、同時に、どうやら理性が帰ってきたようだと思った。今まで100戦100敗の大敗北を期してきた相手を前にして、未だ自分が冷静さを取り戻せることに、ある種の高揚感すら覚えはじめた。
そしてふと、この問いは今日で終わらせようと思った。
いつまで恐怖すればいいんだ、という思いはつまり、もう恐怖したくないという思いだ。だったら、ここで決着をつけてしまえばいい。
かといって『死んだらどうなるんだろう』という問いに真正面から答えを出すことは無理だ。だから答えが見つからなくて恐怖することもあれば、問いに絶望することだってある。この問いを問うということ自体、まずもって無謀。設問が悪かったのだ。ならば、問いの立て方を変えれば良い。
答えは出せないと分かりつつ、それでもなお『死んだらどうなるんだろう』と問うてきた。では逆に『なぜ死んだらどうなるかが気になるんだろう』?死んだらこうなるという科学的な答えが欲しいから?いや、違う。
『死にたくないから』じゃないか?
これに行き当たった瞬間、それまで止まっていた呼吸が、スッと流れたように感じた。湯けむりの細かい粒子が見えてきた。キッチンで晩御飯を作っている音が聞こえてきた。気が付けば、笑いながら泣いていた。
そうか、死にたくないんだ。自分をあんなに悩ませていたのは、こんな単純な思いだったんだ。自覚すると一気に心に余裕が生まれた。いざ答えを出してしまうと、もっと問いたいという気になった。
『どうして死にたくないんだろう』
翻って、
『どうして生きたいんだろう』
咄嗟に、『楽しいことがあるからだ』と思った。好きなバンドの新曲を聴くこと。好きな選手を応援すること。流行りの美味しいものを食べること。後輩の活躍をみること。友達とどうでもいい話で爆笑すること。いろんな「楽しいこと」を思い浮かべた。そしてそれが、自分を生かしているのだと気付いた。
翌日、久しぶりに清々しい気持ちで学校に行った私は、一番親しい友達をつかまえて「世界の真理に辿り着いた」と大げさに告げた。友達は、また何か言いだしたぞという顔をした。当時の自分としてはフェルマーの定理が解けたくらいの感情の昂りだったため、良いかよく聞け、と勿体ぶってこう教えてあげた。
「昨日気付いたんだけど、人生は楽しいほうが良い」
「そりゃそうやろ」
友達はそう言って笑った。こんな重大発表にその反応はないだろう!と面食らったのも束の間で、すぐに笑いがこみあげてきた。そうだよな、当たり前のことなんだよな。こうやって話して笑って、楽しくて生きてるんだよな。それぞれがそれぞれの人生を生きて、突き詰めれば孤独だとしても、会って話せばやっぱり楽しいんだよな。あんなに怖がっていた魔物の正体は、友達に笑われるくらい当たり前のものだったんだよな。
笑ってくれてありがとう。あの瞬間、本当の意味で前を向けた気がした。
あのときは、まさか人に会いたくても会えない生き地獄のような日々が待っているとは思ってもいなかった…。以前のように人と会って話して笑える日々が早く来たらいいなと思う。
追記:記事に寄せられたコメントに返答する記事を書きました。コメントありがとうございました。
https://note.com/morning_coffee/n/n93145b442feb