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アダルトチルドレンと私
私は秋田県北秋田市の山あいで、マタギ文化を体験できるゲストハウス「ORIYAMAKE」を営んでいます。
今日は、ふとYouTubeでオススメに表示された「アダルトチルドレン7つの特徴」という動画をみて、自分に該当するところがすごく多かったので、noteを書いてみたいと思います。
アダルトチルドレンという言葉を知る前は、自分はADHDの傾向があるのかな?(診断なし)と思ったり、でも細かい部分で相違があり納得しきれない所があったりして、なんだかムズムズしていました。
でも、動画を見ると「え!これって普通の事じゃなかったの…。これは自分のことだ…。」と、かなりびっくりしました。
親の喧嘩を子どもが止めることとか…。それって普通のことじゃなかったんですね…。子はかすがいだから、役割のひとつかと思い込んでました。
ずっと、子どもの頃からずっと「うちはごく普通の家族」と思い込んでいた私にとっては、アダルトチルドレンという視点は新たな発見でした。
その“普通”だと信じていた家庭は、私をずっと縛りつけていたのだなぁと。
両親は、地方公務員の父と専業主婦の母。
外から見ると平穏そのもので、家族の誰もが表向きは笑顔で過ごしていたように見えたと思います。逆に「普通の家庭」がコンプレックスだったりもしました。
ところが普通という色眼鏡を外して思い返すと、父と母の言い争いが絶えず、些細な口げんかから激しい衝突まで、まるで日常のBGMのようにケンカの声が聞こえてくる家でした。家族全員で出かけることはほとんどありませんでした。母親がヘソを曲げていつも家に残るのです。
何が原因だったのか、今振り返っても正直わかりません。ただ、母がヒステリックに泣きわめき、父が感情を爆発させる。
そんな修羅場を、幼い私は必死にとりなしていました。二人を落ち着かせようと、間に立って声を張り上げることもしばしば。小さな体が震えているのに、「ここで自分が泣いたら余計に荒れる」と耐え、我慢するのが当たり前でした。
そのうち、両親がいさかいを起こすたびに、私は「大丈夫だよ」と言いながら相手の機嫌をうかがい、イライラをなだめる“調整役”を自分の役目としていたのです。
子どもなのに、まるで大人のように場を取り仕切る。でもその一方で、自分の本当の感情を出す場面はほとんどありませんでした。
好きとか嫌いとか、悲しいとか怖いとか、そういった気持ちを飲み込む癖が染み付いていったんですね。あまりにも当たり前のようにやっていたので、苦しいと思うことすら忘れていたのかもしれません。
先の動画で「アダルトチルドレン(Adult Children)」という言葉に触れ、「これは私のことだ」と衝撃を受けました。
もともとはアルコール依存症など機能不全な家庭で育った子どもたちを指す概念ですが、今では「親のケンカや過度な支配、感情的なコミュニケーションが蔓延する家族」で育ち、心に傷を負ったまま大人になった人々にも適用される広い概念とのこと。
日本では1980年代頃から少しずつ認知され始め、いまや「自分も当てはまるかも」と悩む人は少なくないそうです。
特徴としては、親の顔色をうかがいすぎる、人間関係で自分の気持ちを言えない、自分の存在価値に確信が持てない。
私にも思い当たる節が多すぎて、一気に過去の記憶が蘇りました。
「ああ、私があのとき感じていた言葉にならない息苦しさは、こういうものだったのか」と初めて腑に落ちた瞬間。
正直、安心感とともに強烈なショックもありました。自分の生き方が“子どもの頃の歪んだ家庭環境”にすべて引っ張られていたと気づくのは、決して楽しいことではありません。しかし、傷の正体がわかることで、そこから一歩踏み出せるきっかけになるとも思ったのです。
その一歩を踏み出す場所として、私は意識せずに「山」を選んでいたのかもしれません。
地元の秋田に戻り、祖父母がかつて住んでいた家を改装して、マタギ文化を伝える小さな宿を始めました。どうして山だったのか、後付けでは色々と理由はあるものの、原体験も関係していたのかもしれません。
子どもの頃、家の中ではいつも張り詰めていたのに、山へ行くと急に息がしやすくなった記憶があります。風が葉を揺らす音、土の匂い、そこに暮らす動物の足跡。
そうした自然の営みは、私の耳にはどこか「優しい囁き」のように聞こえていた。自分の感情を押し殺す必要がなくて、ただそこで生きているだけでいい。そんなふうに感じさせてくれていたのかもな、と大人になった今、気が付きました。
実はゲストハウスを始めた直後、似たような家庭事情を抱えたお客さんと出会ったことがあります。彼女もまた、親の感情のはけ口にされ、自分の本心を抑え込んで生きてきたと言っていました。夜、囲炉裏の灯りだけで静かに話していたら、ポツリポツリと彼女の辛い記憶がこぼれ出してきたんです。
そのとき、外から聞こえてきたのは川のせせらぎと虫の声。ホタルが2匹飛んできました。彼女は最後に「ここに来たら、ちょっとだけ自分を許せた気がする」と涙ぐんでいましたが、それはまさに私自身が感じてきた救いでもありました。
自然の中に身を置くことは、もちろん魔法のようにすべてを解決するわけではありません。でも、子どもの頃に縛られていた「家族をなんとかしなくては」という偽りの使命感から、少しでも解放される感覚を味わうことはできます。
自分の気持ちを押し殺してきた人ほど、自然がもたらす静寂と大らかさが、魂の呼吸を取り戻すきっかけになると私は信じています。
私はいまだに、誰かの顔色を気にしてしまったり、せっかくの休みにも「何もしないとダメなんじゃないか」と自分を責めたりする癖が抜けきりません。それでも、外に飛び出し山へおもむくと、自分の心がほぐれていくのを感じるときがあります。
「ああ、私は私でいていいんだ」と。
自然は無理に傷を治そうとせず、ただそこにいることを許してくれます。押さえつけてきた感情をそっとほどいて、自分自身を見つめ直す。
アダルトチルドレンとしての自覚は、痛みを伴う気づきではありますが、そこから始まる回復の道をこれから探していけたらと思います。
父親は亡くなりましたが、いまだに関係がギクシャクしている母親とは、適切な距離を取り戻せそうな気がしています。
本日はここまで。
お読みいただき、ありがとうございました。
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