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偉大な二人の冒険家

角幡唯介さんの『書くことの不純』を読み終えたタイミングで、阿部雅龍さんの訃報を知った。

お二人のことは著書でしか存じ上げないけれど、対極的だと思う。

角幡さんは内省的で哲学的。とある記者の「探検って社会の役に立つんですか?」というたった一つの問いに、本一冊分のレスを返すほど、物事を突き詰めて考える。他人が容易に近付けない仄暗い細道を歩き続けていて、我々はその背中に対価を支払っている。

一方で、阿部さんは底抜けに明るい。仮面ライダークウガに触発されて、名刺に「夢を追う男」と書く。金は人力車で稼ぎ、他人を勇気づけるための冒険だと臆面もなく公言して、実行する。我々はその笑顔を真正面から見ていた。

どちらのほうが偉いという話ではない。

角幡さんの本を読み終えて「おれはこのままでいいのだろうか」と思わされていたところへ、さらに揺さぶる形で阿部さん死去のニュースを見たものだから、気持ちの整理がつかないでいる。

二人とも、歳がそんなに遠くない。僕は阿部さんより一つ若いだけだ。

格が違い過ぎて、そんな焦りのような感情を持つことを烏滸がましいとは思う。40を過ぎてピッケルさえ握ったことのない僕が、この世界で一角の人物になれるわけがない。プロ一軍の選手と中学生、否、メダリストとただのファンぐらい違う。

しかし、格は違うが、歳は近いのだ。

角幡さんの本には、人生を年齢で明確に区切る一節が出てくる。曰く、43歳までは「膨張期」で、それ以降は「減退期」。ちょうど43歳で亡くなった冒険家は非常に多いという。

僕の膨張期は、あと3年で終わる。かと言って慌てて雪や壁に行くのも何か違う。

読み終え、知ったのは八丈島からの帰りだった

色々と考えて、2025年に計画している長旅で、ゼッケンを背負ってみることにした。

2023年の日本縦走では、トラブルを避けるには目立たないのが一番と考え、「日本縦断挑戦中!」と書いたプラカードやゼッケンなどは一切掲示せず、こそこそと歩いていた。この作戦は正しかったと思う。それでもクソデカ荷物だからちょくちょく話しかけられて応援してもらえたし、対人で不愉快な思いはほとんどせずに済んだ。

もう少し踏み込んで言うと、差し入れを遠慮したいという意図もあった。お茶や果物など、気持ちは嬉しかったしおいしかったのだけれど、ごく稀に・ほんの数回だからありがたくいただけたのであって、蓄積すると負担でしかない。ベース15kgの荷物だから、余分なものは持ちたくないのである。ある程度経験を積んだ山ヤなら、他人の荷物を少しでも重くすべきでないと理解しているものだけれど、市井の人はそんなこと知らない。無邪気に、良かれと思って差し入れをしてしまう。田中陽希さんの著書に、正直難儀している旨が書かれていた。

基本的に、うまくいったことをわざわざ変更する必要はない。2025年の長旅も同じようにやるつもりでいた。

それを、あえて変えようと思う。

角幡さんのおっしゃる通り、冒険・探検は個人の内から発せられる衝動に従うものであって、別に社会の役に立たなくていい。結果的に相対的な脱システムの云々みたいな何らかの利益はもたらすかもしれないけれど、少なくとも「目的」としては必要ない。

けれども、冒険が社会の役に立ってはいけないわけでもない。

阿部さんは本気で、自分の冒険によって人を励まそうとしていた。そういう「冒険」もあるのだということを、遅まきながら訃報によって思い出した。

ゼッケンを背負うことで、前回より多くの人に「変なことやってる奴がいるな」と気付いてもらえるだろう。

2023年の旅では、「日本縦断やってるんです」と言った時、多くの人が驚きと笑顔の混じった表情になった。勇気を与えるなんて言ったら烏滸がましいけれど、あの瞬間、プラスの波紋のようなものは提供できていたような気がする。

トラブルは少し怖い。でも、阿部さんの訃報を受けて、自分ももう少し社会に寄与してみたいと思ったのだ。

もっとも、子孫を残さず自分の好きなことをやって遊んでいるわけで、こんな生き方を吹聴するのは国家視点ではマイナスであろう。いや、「子孫を残さず」の部分は言わなければバレないか。

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