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高校生の精神年齢について

旅行記に、高校生の頃は「典型的な陰の者だった」と書いた。

端的に言えば、Twitterで人気のチー牛である。

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最近、「高校生の精神年齢なんてまぁそんなもんじゃないか」と思う出来事があり、あとで「いやそれは自分が極端に幼かったせいでは?」と気付いた。 

3年のクラス演劇で脚本・演出をやらせてもらい、最終的には文化祭最優秀賞を取って胴上げまでしてもらったのだけれど、思い返すとあの稽古期間は、大人たちの中で子供が一人、面倒を見てもらいながら演出家ごっこをしているような状況だった気がする。確かメインキャストはほとんど運動部員だった。

文化部の部活動を一概に否定するつもりはない。が、「対人のチーム戦で勝利するために仲間と力を合わせる経験」の有無は、かなり残酷に精神年齢の差をつけてしまうものだと思う。演劇部もチーム戦ではあるし、中には体育会系的マインドの部もあるだろうけれど、結局「対人戦」ではないのだ。審査のつく大会はあっても、何が原因で勝ったり負けたりしたのか明確にならない。野球なら、直接対峙して、得点を取ったほうの勝ちだ。

勝利が明確でないというのは、もちろん当時感じていたわけではないが、その後の劇団活動においては何度か感じていた。勝利も、「公演の成功」も、よくわからない。お客さんを送り出してアンケートを読んでいると、いつも大成功だったような気がしてしまう。どうすれば勝利なのか明確でなく、日々の稽古も色々なしがらみの中でやっている反動から、幾度となく「徒歩の旅」に出た。旅は単純明快だ。歩けば前身で、ゴールまで行けば勝てる。

話を子供の頃に戻して、僕が運動部員たちより一段階幼かったのは、やはり運動部でなかったからだと思うのだ。大学を出てからも、バイトの中で「使える大学生もいるのに、子供っぽいフリーターだな」と思われていたり、劇団の中で「人間的に幼いんだよな」と人から思われていた自信がある。

チームで勝つために、苦しい練習をしたり、厳しい指導を受けたりした人間と、家でゲームばかりやっている子供を比べて、どちらのほうが社会性を身につけているか? じっくり考えるまでもない。

ならば親はスポーツをさせれば子供のチー牛化を防げるのかというと、残念ながらそうとも限らない。実は僕も小学生時代、少年野球のチームにいたのだ。なぜ入ったのかというと、入りたいかと聞かれて否定ができなかったからで、なぜそこで人間的に成長しなかったのかというと、苦しい練習と厳しい指導が嫌で逃げ出したからだ。中学受験の勉強が忙しくなって……という言い訳を掲げていたけれど、あれは間違いなく逃げだった。厳しい指導などといっても、地域最弱のチームであり、当時の僕の目線だから、バチクソ甘々だったに違いない。

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今年4月、すぐ辞める新卒の話題をたびたびニュースで見かける。基本的には、ブラック企業が悪い。心を病むよりは逃げたほうがずっといい。「逃げ」が卑怯なことではないと、きちんと肯定される世の中になっている。

しかし、少なくとも僕は、少年野球から逃げた結果、ろくなことにならなかった。ずっと幼いまま、中学生になり、高校生になり、年齢だけは大人になっていった。どうにか戦えるマインドが身についたのは、劇団の解散に至る撤退戦で地獄を見てからのことである。

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