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楽しいと感じている時は、もはや楽しくない

 私は少し思い違いをしていたのかもしれない。
 仏教の、釈迦の目指した地点が、目的を持たない境地だとして、その境地に立てば、楽になれる、楽しくなれる、と思っていた。
 しかし、考えてみれば、楽しくなるために、目的を持たない、とはとんでもない矛盾であって、それは目的を持ってしまっているのである。
 楽しい、とは?
 楽しいとは、一時的に無心状態になった私が、再び個性に目覚め、さっきまでの無心状態を確認し、今私は楽しいと感じていたのだ、と確認することであろう。
 ある人が、草取りをしていて、一生懸命やっていた自分を発見し、私は今楽しかったのかもしれない、と言ったのを覚えている。
 そう思えば、無心になれれば、何をやるかは、あまり関係ないのかもしれないし、私は考えるのが好きで、考えないことが嫌いであるが、本当に考える、とは、一生懸命に、無心で考えることなのかもしれない。
 楽しいと感じている時点で、もう楽しい状態、無心状態は終わっていて、ただ楽しかった時間を懐かしんでいるだけなのかもしれない。
 つまり楽しいとは、もはや結果であって、充足の過程ではないのである。

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