伸びない動画と三島由紀夫『酸模』について
動画が伸びない。いや、伸びないのはいいのだが、動画を作る労力に見合っていないのである。元々、文学なんていうニッチな題材を扱っているわけだから、伸びないのは仕方がない。それでも何か作ってみたい欲求はあるのである。
そこで色々参考になりそうな動画がないか漁ってみたところ、よさそうな動画があった。その動画はBGMも文字も立ち絵もなく、ボイスに合わせた音声波形の表示と、最小限のエフェクトだけであった。そのシンプルなスタイルも好きであったし、無理に紙芝居形式にする必要もないのだな、と実感した。これなら労力の削減もでき、日記のように動画が作れるのではないか、と考えているところである。
さて、動画漁りをしている時に、三島由紀夫の紹介をしている動画を見つけて驚いた。私以外にも三島好きがいると思うと嬉しくなった。紹介していたのは、『酸模――秋彦の幼き思い出――』であった。私はすべての三島作品を読んでいる訳ではないが、初期の作品では、『花ざかりの森』『彩絵硝子』『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』『岬にての物語』などが好きだが、この『酸模』にはもっとも作者と一体になったような体験があった。私は三島であったし、三島は私であった。その時の興奮状態で書いた日記を読み返すと、何だかあの頃の自分が羨ましいように思う。あの頃はまだ仕事もしていなく、日がな一日、好きな時間に思索の海、感性の海に潜ればよかったのである。仕事を始めた現在、私は陸の上から、向こうの沖や、その下にあるであろう深海への憧憬を否定できない。かといって、もう一人で深海に潜っていることにも満足できなくなっているのである。
その動画について、一つ気になったことが、私が一番好きな文章の引用がなかったことである。引用は、
「むせる様な草の息吹と、絕え間ない蟬の啼き聲と、そして目を射るやうな、綠。綠。叉綠。一點の雲さへ殘しては置かない靑空に、消えては現はれ消えて行く徒雲――。
夏が來たことが知られた。」
ここで終わっているが、次にこう続く。
「けれども、あの塀の内には夏が訪れないであらうと、子供達は信じて居た。何故ならば、大人さへ乗り越せない、高い高い灰色の塀を、『夏』にしたつて越せるわけがないと思つたからである。」
この部分が私はこの小説で一番好きだ。三島が嫌った、自分の感性を、私は大切にしたいと思うのである。