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10月22日(火)15日目 観自在寺


道の駅の脇のキャンプ場。すぐ真横で道の駅の物産を買って食べながらキャンプできるし、景色も最高なのだが、ただ、その素晴らしいキャンプ場というのにも弱点があって、それはつまり「それだけ素晴らしい場所ならいろんな人が来る」ということである。普通、キャンプ場というものはお金を払ってキャンプしにきた客しか入れない。ところがこの道の駅に併設されたキャンプ場は、懐が深いというか、まちの人たちに愛されているというか、別にキャンプ以外で来る人たちにも割とウェルカムというか、たとえば近所の人たちが犬の散歩にやってきたり、旅行客が記念写真の撮影に来たりする。さすがに夜中に侵入してくる人はいないのだが、今朝起きると、犬の散歩しているおじさんや旅行で来られているカップルなどが来て、真横にテント張ってるのも構わず、談笑したり、カメラを回してたりするので少し落ち着かなかった。仕方のないことだけど。

さて今日はどうするか。というのも昨日、テント設営時には予報に反して奇跡的に止んでいたものの、今日の予報でも「雨は基本降りっぱなし」だったからである。雨の中、テントを設営したり撤収したりはしたくないし、移動先に心地よいキャンプ先があるかどうかもわからない。旅のログも溜まっていれば、連日の坂道と移動で足の疲労も相当なものだ。今日一日はオフにしてもろもろのメンテナンスに充てるのはありなのではないか。幸いこのキャンプ場なら一泊の値段も安いし、お腹が空いたらすぐ食べ物を調達できる。ただ、今日を休めば初めて「一カ所も寺をまわれなかった一日」になってしまう。それに「雨だから」を理由にすると前に進めなくなってしまうかもしれない。というのも、高知に入ったあたりからずっと天気予報では「二週間ほど雨模様」のような予報が続いているからである。これもお遍路を始めて思ったことなのだが、何かを「やめる」のに理由をつけようとすると、いくらでも理由が見つかる。お遍路する? どうしよう?でもなあ。お金ないし。かかるでしょ、お金。それに時間もない。なかなか取れないでしょそれだけの時間。意味もないしなあ。その間にコロナになったらどうする?一発でアウトだよ?年齢的にもキツいし……等々。天気が悪い。雨が降りそう。前に進まないのを肯定するのには、休むにはすごくいい「理由」なのである。一度これを許してしまうとズルズルとずっと休んでしまいかねない。昨日もそうだったし今後もそう。天気のこと、その時の状況が最適でないことを気にしはじめたら何もできない。

ビートルズに「Rain」という曲がある。

If the rain comes, they run and hide their heads
They might as well be dead
If the rain comes
If the rain comes

When the sun shines, they slip into the shade
(When the sun shines down) And sip their lemonade
(When the sun shines down) When the sun shines
When the sun shines (Sun shines)

Rain
I don't mind
Shine
The weather’s fine

雨が降ったら
みんな走って濡れないように隠れる
まるで死にたくない!って感じでさ
雨が降ったら
雨が降ったら

太陽が出てきたら
日陰に避難して(陽が差し込んできたら)
レモネードをすすってる(陽が差し込んできたら)
太陽が出てきたら
太陽が出てきたら

雨……
別にいいじゃん
陽射しが……
いい天気じゃん

人は雨なら雨で文句を言うし、晴れたら晴れたで暑いだの陽射しが強いだの紫外線だの文句を言うのである。ジョンレノンの言う通りで雨が降ったって気にしなきゃいい。なんなら「涼しくてよかった」「紫外線が少なくて助かる」くらいに思っておけばいいし、晴れたら晴れたで「天気いいなー」と思っておけばいいのである。結局、この世は住みなす人の気持ち次第、見方次第。そんな感覚を根底から悟りはじめたのもお遍路のおかげかもしれない。行くしかない。上手くいかなくても非効率でも一歩一歩確実に。前に進もう。いよいよ次は愛媛最初の札所四十番観自在寺へと向かう。観自在、つまり「すべてを自由に見ることができる」という名前の寺だ。

幸い今は天気もいい。さっとテントを撤収してスタッフの方にお礼を言いにいく。名残惜しいがキャンプ場を去ろうとしたその時、全身金色のラメのつなぎ?を着た人がキャンプ場に現れた。ずっとスマホのカメラをセルフィーで回している。肩からは「誕生日おめでとう」の襷をかけている。こういう人がいたら、つまり自分がその人に少しでも興味を持ったら近づいていく。それもお遍路で学んだことだ。変なことばかり学んでいる。まあいい。「何されてるんですか」。話しかけてみた。


ハイパークレイジー君さん



「日本全国を回っていて。各地で動画を撮ってます」。やっぱり配信者らしい。名前は「ハイパークレイジー君」と言うらしい。「スーパークレイジー君??」と聞き返すと「いや、【ハイパー】です」と結構強く訂正された。スーパークレイジー君とはまったく別の個体のようだ。「今日が誕生日なんですか」。聞くと「はい!」。おめでとうございます!!と言うと「毎日が誕生日です!」。どないやねん。結局こういうことらしい。数日前に旅をしようと思いたち、日本のあちこちを旅していた。ふと途中で「へずまりゅう」に会いたいと思い奈良へ。へずまりゅうに会ったことで刺激され、自分も動画配信しようとなり、ドンキホーテで衣装を買った。せっかくだから日本一周をしよう!ともなったらしい。そして今は四国、高知に来ているという。

「へずまりゅう、めっちゃいい人でした!」。中国人に対して最悪なのに?と思ったし、そう言ったが、それはそれ。わざわざ会いに来てくれたハイパークレイジー君さんには優しく接してくれたのだろう。へずまりゅうリスペクトはどうかと思ったが、一念発起。自分と同じく思いつきで旅行をはじめ、新しいことにトライしているその精神を応援したくなった。幸い自分はXでなら1万人くらいはフォロワーいるので、何かの宣伝になればと思い、Xのアカウントを教えてほしい、動画チャンネルどこ?アップした動画どこで見れるの?と聞いたのだが、体勢がまったく整っていない。Xは実質運用しておらず鍵アカ。個人的な用途で「配信者ハイパークレイジー君」になる前の素の彼の投稿がいくつか並んでるだけだった。YouTubeのチャンネルは?と思ったがこちらも準備中のようで、この時はまだ動画が一本も上がっていなかった(Instagramはそれなりに運用していたら様子)。はじめたばかりなので仕方ないのだが、配信者ならいつ何が起こるかわからない。常にRECするというアティチュードというかマインドセットが必要で、それがないと決定的瞬間を撮り逃してしまう。単に景色を撮って一人で撮影してたらお遍路さんが話しかけてきた。それこそ「おもしろハプニング」と捉えることだってできる。今カメラ回さないでどうするんだと。自分はお遍路をしながら常に「撮るぞ」という気持ちで臨んでいる。今後もそうするつもりだ。おたがいがんばろう。ハイパークレイジー君さん。とにかくとても感じがいい人だった。その後動画もアップされたようだ。森は高知の山中をつっきって宿毛に来たので、今回の旅では「柏島」はスルーしてしまった。その柏島をレポートした彼の動画があるので、時間ある時にぜひ見てほしい。(自分はWi-Fi環境整ったときに見る)

https://youtu.be/NfviKIu9xJ8?si=OXv7CRk8ASXxxIE5

さてハイパークレイジー君とも別れ、高知を立ち愛媛県は愛南町へと向かう。雨はまだ降ってはいない。距離として見た場合、たったの25kmなので大したことはないのだが、四国のこの辺りは市町村と市町村の間はすべて山でパテーションされてる感覚だから思ったよりも時間がかかったが、とはいえ無事に山越え四十番札所観自在寺に到着。街中にあるシンプルでスッキリ系の寺だ。これだけ毎日寺を見ていると、だんだん寺を見る鑑識眼というか、目利きというかが身につくし、コメント力というか、見ていて思いつくことも増えてくる。自分の中での寺の大きなくくりはいろいろある。たとえば広いか狭いか。クラシカルでスッキリしているか割とごちゃごちゃといろいろ置いてあるか。本堂と大師堂の位置関係。仁王門の有無やその形状など。実はお寺についてはほとんど事前に何も調べない。なんならこの先、どんな名前の寺があるかは、寺に到着して参拝した後「さてお次の札所は?」で初めて検索し、そこでようやく名前を知るといったレベルである。事前に情報を入れるといいこともあるが悪いこともある。いいことというのは「見どころ」や「見るだけでは絶対にわからないこと」について知れるということだ。たとえば延光寺の境内には「七つの亀」がひそんでいるらしい。こういうのは事前にネットなどで調べないとなかなかわからなかったりする。逆に事前に情報を知ると悪いこともある。思い込みだ。いわゆる「情報を食う」というやつで、人は「無化調のラーメン」とか「無農薬野菜」などといったラベルで「だからいいに決まってる」などと判断してしまう。自分がナマで感じたフィーリングや手触り、質感、違和感を情報の記号で上書きしてしまうのである。

情報、記号ということで言えば、この際だから言ってしまうが、お遍路を見ていても、あんまり寺や仏像それ自体を観察したり事細かに見学したりしている人が少ないように見える。それが目的だから仕方ないのだが、お堂に参拝して札を納め、真言を唱え、納経所で納経する。あとは少し体を休めて……次!という感じである。自分が思うにお寺は全力で「ボケ」ている。それに対してみんなツッコミ入れず、淡々と流しているように自分には思える。もっといろいろ驚いてもいいのではないか。

たとえばこの観自在寺だが、名前からすると観自在、すなわち「見方は自由にできるよ」という名前の通り、見る角度や視点によって様々な景色をあらわしてくれる、どちらかというと金剛福寺のようなお寺を想像していたが、実際は割と「スッキリ系」である。こういうとき、自分は心の中で(たまに声に出して)「なんでやねん」とツッコミを入れている。もちろんこれ自体が「見方次第」である。観自在寺だって言葉の通り、自由な見方ができる。品があって落ち着いていて。素晴らしいお寺だった。


その後、同じ愛南町で昼ごはんを食べる。まちで一番人気のうどん屋さんということで行ってみたら満員で、でもすぐに席が空きそうだったので待ってからお店に入ったのだが、うどんを食べてびっくり。ほとんどゴムゴムの噛みきれないようなテイストのうどんで「こんなの香川で出したら怒られるのでは」と思ってしまった。でも、別に料理がまずいわけではなくて天ぷらはサラリからりと揚がっていてとても美味しかったし、何よりめちゃくちゃ安かった。それなのにうどんだけそんなにおかしいことってあるんだ……。

次の札所を早速目指してもよかったのだが、日比光則さんから「愛南に行くなら絶対に紫電改の展示だけは見たほうがいい」と言われる。紫電改は日本の戦闘機。『あしたのジョー』で有名なちばてつやの代表作『紫電改のタカ』のあの「紫電改」である。日比さんの指令は絶対だと勝手に思ってるから(笑)、行ってみることに。地図を見ても今いる愛南市街地からそう遠くはない。たった3kmほどしか離れてないので見ておこうと思った。紫電改が見られるのは世界でここだけらしいので。

3kmなんて自転車なら本当にあっという間の距離なので寄り道しても構わない。その後で次の札所に向かえばいい。時間はたっぷりある。そう思っていたのだが、走れども走れども坂、坂、坂。本当にえんえんと坂なのでまた例のごとくさすがに途中で「ふざけるな!」と叫んでしまった。3km、4kmほんまに坂だけって……。それも札所までの道なら避けることもできないのだから仕方ないと受け入れるしかないが、紫電改は札所ではない。気づいたら何度も道の真ん中で「いい加減にしろ」と叫んでいた。叫んでもいいの。誰も近場にいないんで……。そもそも日比さんがいつも「これは必ず見たほうがいい」という場所、たいてい「高い場所」にある。室戸の廃墟も山の山頂だったし、この紫電改の展示場も山の中も山の中。近くに展望台まであった。




到着した時には足がパンパンだったが、実物の紫電改を見たときはさすがに心動かされた。戦争で使われた実機である。これが海の中から引き上げられて、復元され展示されている。多くの若い飛行士が戦争でその命を落とした。展示にはそうした戦争の悲惨さを伝えようとする内容の説明書きなどが多数掲示されていた。他方で紫電改グッズのようなものも売っており、要するに「紫電改、カッコいいよな?」というノリの人たちの需要にも応える形になっている。それは確かに需要があるのだと思うし、そこでお金を得てこそ展示が続けられるのであり、展示が続けられるからこそ、平和を継続的に訴えることができるのかもしれない。それはそうなのだが、戦争の足音が近づいてきている、パレスチナもウクライナもあんなことになり、頻繁に「第三次世界大戦」という文字がSNSのニュースにもなったりする現在、やっぱりそれも引っかかってしまう。展示の文字情報も熟読したかったが、自分には遍路がある。時間がない。それに坂道のせいで頭がぼーっとしていた。実物の紫電改を目にした。あとは後日、時間のある時に必ず、紫電改について調べて掘り下げていこう。ちばてつやの漫画も買って読もう。そう誓って山を降りようとした時、連絡が入った。森のほぼ全蔵書の買取をお願いしている、高松の古書店ヨムスさんからの電話である。15日には買取回収するとのことだったのだが、思いのほか本が多かったので22日にもう一回徳島まで取りにくるということだった。一生をかけて集めた蔵書を今、自分はすべて手放そうとしている。そしてそれを路銀に変え、お遍路なんて「興味ない人からすれは何をしてんだか」なものに全身全霊をかけている。別に車で行けば安いしラクなのにいい歳こいて自転車で。一体何の苦行なのだろう。やってる最中は苦行のおかげで脳内麻薬がいろいろと出てくれるため、辛い苦しいことですら逆に変に痛気持ちよく、おかしなハイテンションになるのだが、こんな感じで「日常」が電話やLINEでインサートしてけるとダメである。途端に我に返ると「無職で14年住んだ場所も居場所も引き払い、蔵書もすべて放ってしまった一人の異常な人生敗残者」こそが自分なのであって、それを今すぐに認めたくないから「私はお遍路だ」と言い張ってるだけのような気持ちになってくる。本当に本を売ってしまっていいのだろうか。でも、もう自分は決めたのだ。本を持っていてももう自分には読みなおすことのできる「健康な時間」は残されていないのだから。古本の査定は進む。お遍路も終わりに向かって走り抜けるしかない。

紫電改を見終わり次の札所に向かう。次の札所四十一番龍光寺はここからさらに50km先にある。80kmとか100km先の札所もあったから、今さら50kmと聞いても距離的には「近いな」としか感じなくなっているのだが、問題はその「道」の質である。平坦な道であればよいが山越えがあるなら今日中には間に合わない。それに天気もある。今晩はかなりの雨が降るらしい。民宿を近くで探そうとも思ったが、民宿を続けるのも贅沢かと思ったし、今日もなんだかんだで一ヶ所しか札所を回れていない。すぐに明日に回してしまうのは〆切のない旅の悪いところだ。〆切がないどころか急いだところでそれは急いで「ただの無職」になるための努力にしかならない。そらどうしても足が遅くなってしまうわけだ。よくない。次の札所までは無理かもしれない。けれども今日中に進めるところまでは進もう。調べてみたら途中に須の川という海岸がありそこにキャンプ場がある。向かいには温泉もあるみたいだ。今晩はそこでテント泊をしよう。雨も降るみたいだが、それも楽しんでしまえ。

そう思い自転車で走り、また坂を登り、先に進む。昨日と同じく、コンビニで何か買って、それで雨の中最高のキャンプをし、それをSNSに投稿する。己のキャンプスキルを見せつけてやろう。そう思い、あれこれ買い込み、あと少し!がんばろう!と思って自転車をこいだら左手にものすごくわかりやすく大きな文字で「民宿4500円」「Wi-Fi使えます」と書いてある。その文字の大きさ、明確さと目の前の坂に負けてしまった。なんとなくの直感で今夜はここに泊まったほうがいいと思った。民宿に入る。女将さんが出る。今晩ちょうど一人体調不良で予約客がキャンセルになったから一部屋空いてるという。ただベッドの部屋なのて他の部屋よりも高くなり5000円になるとのこと。仕方ない。これも仏の思し召しかもしれない。商談成立。泊めていただくことにした。Wi-Fiがあれば電子書籍で『紫電改のタカ』を買える。読める。キャンプというと「安い」と思うかもしれないが、結局、お風呂にも入れば洗濯もする。充電も必要で足していくと結構お金がかかったりする。それなら民宿のほうが割りに合うこともある。

こちらの民宿、昔は結構人気の旅館だったようだが、元のオーナーが物件を手放し、それを今の女将さんが一階をカフェ食堂にし、2階、3階を民宿として貸し出しているとのこと。施設を案内してもらうのだが、それなりに大きな旅館業を前提とした施設をダウンサイジングして民宿にしているため、ガッカリさせられることが多かった。たとえば浴場。非常に大きな素敵な大浴場だったのだが、現在ではこれはただの飾りで使われていない。奥に小さなユニットバスがあり、各人が自分のタイミングで毎回お湯を入れて入ってくれとのこと。こうしたダウンサイジングはあちこちで見た。金剛頂寺の前にあった民宿うらしまもそうだった。大きいお風呂に小さな浴槽を入れて、そこにお湯を張っていた。昔は大人数が来てたけど今では……。日本各地でこんなダウンサイジングが、そして既存のインフラを利用するが、新しく設備投資できない状態なのだろう。

明日は宇和島に行き、四十一番札所龍光寺へ。続いて仏木寺、さらに西伊予の明石寺(めいせきじ)へと進む予定だ。

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