閉ざされた感情へのリアクセス
昼下がり、小学校から合奏が聞こえる。
「今日は音楽学習会〜」
と歌いながら登校する小学生にすれ違ったっけ。
–発表会。
自分を表現することは好きだった。でも小学校の時の「発表会」は少しドキドキやモヤモヤストレスだった。
親に来ないでほしい。みられたくない、バレないでほしい。そんな思いだった。父には知らせるけど、仕事だし、そこまで興味ないから、「来ないよね?」で、済ましていた。
母にバレなければミッション成功だった。
でももう少し深ぼってみよう。
気づいてほしかった?親がいないことを。可哀想だねって。思って欲しかった?可哀想だねって。
(あ、今涙が出たよ。)
気づいてほしかった?親がいない、私を。辛いんだねって。
大勢の父親、母親。みんな、来てくれんだね。愛されているんだね。他の家庭は過保護だなんて思わない。ただ、羨ましいともちょっと違う。なんなんだろう。
自分の子どもを観にくる親たちを体育館の雛壇から見ていた。冷たい目で見ていた気がする。親なんだなって。
もうその時から気づいていたんだ。
よく質問であるやつ。「涙もろい人?」
本読んだ時とか、映画見た時とか、怒られた時とか、嬉しかった時とか。
小学生の時に気づいた、私が涙流すとき、それは自分自身の時。自分が逆境で、いわゆる「可哀想な時」。
でも周りの子は、そんなこと言わないし、聞かない。他人が可哀想な時とか、嬉しかった時とか。
え、なんでみんな他の人のことでそんなに心が揺れるの。私、自分のことしか考えていないのかな。ジコチュウなのかな?
そんな気持ち悪いヤツと思われたくないよ。隠さなきゃ。恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。隠さなきゃ。ジコチュウで自分だけのことしか考えていない私じゃダメだ。もっと周りに誠実で、思いやりがあって、みんなが頼れる私に。
その時なのかな。悲しいに蓋をした時。自分が可哀想って、思う、それが恥ずかしかった。
悲劇のヒロイン症候群とか、自己憐憫とかって言葉聞くとドキドキする。自分はそうなっていないかって。
そうならないために、かっこよく言えば自律するんだ。
自愛していうなら、辛さや悲しさを抑制するんだ。
何が正解なのよ、どうすれば完璧なのよ。ねえ。みんなこういうことで悩んでいるんじゃないの?違うの?
そうなの?
これこそ悲劇のヒロインなの?ああ、自分が気持ち悪いよ。
身を地面に投げつけたいよ。死にたくなるよ。ああ。身を投げたい。
リストカットしたくなる気持ちわかるよ。
自分の閉ざされた感情にリアクセスする、なんて苦しいのだろう。
できているのだろうか?
あとで見ると、私こんなこと感じちゃうんだ、って思う。
あるミッションを達成するために、ある方にメンタリングしてもらって、自分にもう一度向き合ってみたら?もう少し、原体験を思い返してみたら?と言われたので、やってみた。
「自分の感情じゃなくて、頭で考えて話しているよね?」
って指摘されて。
これがトラウマなのかも分からない。自分は本当に辛い経験をしたのかってふと思う。本当は勝手に、自分を正当化しているんじゃないかって。
こんなこと、知り合いに直接なんて絶対言えない。
でも間接的になら知られたい自分もいる。
なんでだろうねぇ。
表面的には社会の一員として属して、割と大学生活謳歌している部類に入るであろう、そんな私です。
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