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ブックレビュー『国民の歴史』西尾幹二著

もう何年も前になるが、西尾幹二さんの『国民の歴史』を読んだことで、歴史の見方が大きく変化した。そもそも私自身の歴史の知識が浅く乏しいせいでもあるが、同書には旧来の歴史観を覆す内容が多く含まれており、その意味でたくさんの新しい発見があった。
もちろん全ての記述を鵜呑みにするわけではないが、知らなかった多くの事実を知り、同氏の鋭い洞察や指摘を参考にすることで、その後に読んだ本の理解の仕方がいくらか深まったように感じる。

例えば『古事記』等に記された「神話」の部分について、荒唐無稽な作り話であって歴史書の範疇には入らない、と考える人も少なくないであろう。何かを象徴するものだと解釈したり、あるいは実在の人物を物語的に誇張して描いていると考えたりするなど、いろいろな見方をすることが可能だ。実際、イザナギが川で禊をしたらアマテラスやスサノオが生まれたとか、頭が八つ、尻尾が八本あるヤマタノオロチを退治したとか、数回殺されたオオクニヌシがそのたびに生き返ったとか、ヤマサチの奥さんのトヨタマヒメは子供を産むときサメの姿だったとか、これらがすべて「歴史的事実」であるとは考えにくい。
では『古事記』を記述した太安万侶は、書いた内容が全部「事実」だと思っていたのだろうか。なぜこのような書き方をして後世に残したのだろうか。この疑問に対して、同書では次のように述べられている。

神話の本質を明らかにしようとする場合にわれわれがはっきり認識しておかねばならぬ前提は、神話の内容の今から見ての非常な不合理性、不条理性は、けっしてそのような話を生み出した人々が合理的に思考する能力を欠いていたことを意味するものではないということだ。そもそも人間がそのなかで合理的な思考をいっさい行わなかった文化などというものは、人間が地球上に発生して以来ひとつとしてない。
(中略)どんな時代にも人間は合理的思考能力に頼り、それによって解決できる問題はすべて合理的に解釈しながら生きてきた。神話は一つにはその形象化である。しかし神話の核心はさらにその先にある。どうしても合理的に解決することのできない問題が人間には残る。自分はどこから来て、どこへ行くのか? この実存的問いに合理的答えを与えることは誰にもできない。そして、誰にも与えることのできないこの答えになんらかの決着をつけているのが「神話」の根源にあるものなのである。

われわれは古代人の頭の中を想像するとき、例えば神話の記述内容をすべて「事実」だと認識していたのではないか、現代人とは物の見方考え方がずいぶん違っていたのではないか、と考えることがある。しかし、実は現代人とさほど大きな違いがあるわけではなく、合理的な答えが見つからない疑問に対して、一所懸命に考えつくした努力と洞察の痕跡が、神話という形で表されたのではないか。
また、私自身いつも感じていることだが、人は昨日の出来事ですら「少し誇張して伝える」傾向がある。100年前の出来事に至っては、事実の検証すら困難であり、多分に「記述者の都合に合わせた解釈や想像や史料の取捨選択」が含まれるはずだ。そんな「歴史の記述」と「古代の神話」との間に、いったいどれほどの違いがあるのかと思われてならない。
引用を続ける。

神話の内容の示す、一見荒唐無稽な非合理な形象や物語は、それを記述した人々にとってどこまでも自分の今生きている世界からはすでに遠い、もはやすでにわからなくなりかけている異世界の、かつてそのようなものとして過去にあったと信じられた伝承を端的に文書化する行為だったという意味において、これはどこまでも歴史記述の一結果なのである。

確かに、8世紀に生きた太安万侶から見ても、もしかすると「千年くらい前から伝わっていたお話」だった可能性がある。彼自身、「ヤマタノオロチなんて誰も見たことがないよな?」などと思いながら、しかし当時の「伝承」を尊重しながらそのまま記述したのではないか。「答えのない問いに対する古代人の洞察の記録」が神話であるなら、それは今でも大いに尊重して構わないのではないかと私個人は考えている。

時代は大きく飛んで、昭和20年8月の西尾さんの思い出を引用しておきたい。我が国では、大東亜戦争の評価ほど人によって意見が分かれ、論争の対象となる出来事はないといえるかもしれない。私自身まだまだ勉強中であり、「こうではないか」と考えている部分もあれば、勉強量が少な過ぎて分かっていない部分も多々あるので、何らかの結論を述べることはここでは差し控えておきたい。ただ一ついえることは、現在行われている評価の大半は、「その出来事が済んだあとだからいえること」ばかりであって、昭和20年8月の時点で仮にその人が当事者だった場合、おそらくそのような理解はしなかったのではないか、ということだ。
例えば(※本記事を作成した)令和二年一月に、これから起こる出来事を正確に予測(予言?)し、すべて後世の評価に耐え得る完璧な判断と行動をとることが可能だろうか? 当然、「まだ起きていないこと」なのだから、完全な予測も完璧な対応もできる保証はない。それを七十年後の未来人が、
「令和二年にはこういうことが起こるのだから、なぜ当時の人間はあらかじめこういう準備をして、こういう対処をしなかったのか」
と考えても、そのこと自体に意味がないように思える。
終戦時、10歳の少年だった西尾幹二さんは、次のようなことを考えていたそうだ。

日本が降伏したと聞いた直後から、ずっと私をとらえた感情は、今だから正直に言うが、ひどく幼い不安だった。敗者は殺されるか奴隷にされるかのどちらかで、子どもは命を助けられても、親から切り離され、安寿と厨子王のように敵国に連れていかれて、鎖に繋がれ、兄妹だけで労働を強いられ、殴られたり蹴られたりするのではないかという動物的恐怖にほかならなかった。

この想像が「バカバカしい」といえるのは、そうはならなかった事実を知っている「未来人」のみである。その当時は列強による「苛烈な植民地支配」が継続していたし、どこかの国の軍隊が占領地で略奪をしたり、女性を凌辱したりしていた事実は、おそらく多くの日本人が知っていたと考えられる。実際、それよりあとのベトナム戦争でも、どこかの国の軍人が多くの女性を凌辱した。それが昭和20年8月時点の日本において、バカバカしい想像だと思えただろうか。むしろ、現実的に起こり得る事態の予測だったとはいえないだろうか。

本書を読んで以降、私は歴史を記述した文章を読むたびに、「その後の事実を知っている未来人だからいえること」なのかどうかを、できるだけ見分けるように気をつけている。もちろん知識不足から、書いてあることをつい鵜呑みにしたり、自分勝手に脳内変換していることも多々あるかもしれない。それでも、当事者はどう考え、どう行動することが可能だったのかを、分からないなりに想像することは、決して無駄ではないと思う。
本書には他にも興味深い内容がたくさん含まれている。ぜひ多くの方々に読まれることを期待したい。

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