人に「期待すること」と「期待しないこと」は同じことだと思うという話
一体何を言っているんだろう?
おそらく、そう思いながら読んでくれている人も多いのではないかと思う。期待することと期待しないことがイコール?
普通に意味がわからない。きっと、それが自然。
でも最近、本気そう思えるようになってきた。
少しでも興味をもってもらえたなら、ぜひ最後まで読んでみてください。
人に期待してばかりだった幼少期
小学生までは、とにかく泣き虫で通っていた私。
負けず嫌いで泣くことも多かったが、今年41歳になり、改めて振り返ってみると、それだけではなかったのではないかと思うようになってきた。
親は自分の思う通りにしてくれるだろう。
兄弟は自分の言うことを聞いてくれるだろう。
友達は自分を優先したり気にかけたりしてくれるだろう。
心のどこかで、自分が中心にいる世界を常に期待していたのかもしれない。
思い通りにいかないと、すぐに声をあげて泣き、人のせいにし、自分を正当化しようとしていた。今思うとなかなかひどい。しかも、そんな自分を誰かがなぐさめてくれると期待していた。
小学4年生のクリスマス。どうしても欲しいトランスフォーマーのおもちゃがあった。価格的に無理だと思っていたのか(このあたりは記憶が曖昧)、言い出せないままクリスマスイブを迎えた。イブの夜、布団の中で何度も何度も呪文をとなえるかのように、心の中でサンタクロースにお願いした。翌朝、枕元にあったのはもちろん違ったプレゼント。現実はそうだよねと思った記憶がある。人に期待だけをしていても、結局がっかりするだけだ。このときから、ぼんやりとそう思いはじめていたのだと思う。(自分ができることを何一つやっていない、そんな最悪の状態での期待だったが、それでもこれが一つのターニングポイントだったように思う。)
予測の意識と習慣
小学5年生になり友人の誘いではじめたサッカー。新しいことをはじめても、器用にいきなり上手くできるタイプではない私。小学生のときは、練習でも試合でも、ポジションの近いチームメイトから散々にダメ出しされたし、中学生になっても、2年生まではレギュラーの先輩に、これまた練習中も試合中も散々どやされた。自分のスキルレベルとしては、ギリギリ試合にだしてもらえるかどうか。なので、ピッチ上にいる先輩たちからみたら、もたもたしているように見えたのだと思う。(どうして監督は、自分を試合にだすんだろうと思っていた時もあった。)
友達と一緒にボール蹴るのは楽しかった。しかも、敵の思考の裏をかき、仲間の頭の中を一瞬で想像し、共に数秒先の同じ未来をみていた時の快感はたまらなかった。それでも、正直いつも怒られるのは嫌だった。このころからだろうか、気づくといつも人のことを観察し予測するようになっていた。はじまりは、サッカーでの 快感の獲得 と 不快感の回避 のためだったのかもしれない。
この頃から、人に対して自分に都合の良い期待をしているよりも、観察し考え予測する方が、気持ちが良いし楽しいと感じていたのだと思う。当時は、こんなふうに言葉にはできていなかったが。
人に期待をしない生き方
大学時代。別れ際に「付き合ってなんてなかったよね」といわれて終わった恋があった。その当時、別れた後、全てを相手のせいにしてグチグチと友人に愚痴をいっていた自分を今でもよく覚えている。この頃は、すでに"期待"ではなく"予測"をするようになっていたはず。それにも関わらず、相手に求めることが多く、それでいて結局思い通りにならず、がっかりしていた。恋は盲目とはよく言ったものだ。しかも、その結果が辛くて、人のせいにするなんて、まるで小学生の頃のようだった。
大学を卒業し、社会人のスタートは富山県。地元ではない。数年後、転職し地元の福井に戻り、さらに何年かして結婚した。結婚生活もはじめの数年は、"期待"の寄せ合いで、お互いの常識をぶつけ合いながら、よく衝突していた。それ自体は、今でも必要なことだったと思うが、暮らしを続けていくうちに、次第にどんなに話し合いをしても、どうにもならないものもあるのだと感じるようになってきた。互いに意地悪をしているわけでもない。ただただ、いつも上手くいかないことがある。どうしてだろう。考えたり話したりして考察し、あれこれ実験し続けてきた。そして一つの仮説にたどりついた。その人にとって、それは、ただただ"苦手"なことなのではないか。当然だが、同じことは自分にも言える。いつも自分に落ち度があり、相手を不快にさせてしまうのは、それが"苦手"だからなのではないか。"苦手"と聞くとネガティブなイメージだが、そこにはポジティブもネガティブもなく、良し悪しもない。何の感情もなく、ただ無機質で、その状態そのものを表しているだけ。人は、自分や周りの人が得意なことは、誰しもできるものだと考えてしまいがちである。人がそれぞれもっている常識というものは恐ろしい。では、こう考えてみるとどうだろうか。40年間ずっと苦手だったものが、たかだか数年で克服できたり、得意になったりするものだろうか。答えはNOだと思う。なぜかいつも上手くいかないことは、苦手なことなのである。そう考えたら、モヤがすっと晴れたような気がした。
人は大抵、自分ではどうにもできない"苦手"を抱えている。しかし、世間は常識という言葉でくくりつけて、その"苦手"は克服されるべきだと"期待"してくる。そうなってしまうと、"苦手"を抱える人も、それの克服を"期待"をする人もお互いに辛い。別に、いくつか"苦手"なことがあってもいいじゃないか。心の底からそう思うようになってから、基本的に人に期待しない生き方になった。言葉の響きだけ聞くと、とても寂しい感じがする。なので、こう言い換えたらどうだろうか。人の苦手を理解し、受け入れる生き方。
自分のための予測は人に求める"期待"となる
"期待すること"も"期待しないこと"も、私はどちらも"相手の行動予測"でしかないと考えている。世界の中心は自分ととらえ、自分のための行動予測は、結果的に人に求める期待となる。一方で、相手を中心に考えた行動予測は、人への期待にならない。それは、本当に純粋な予測となる。
これは、どちらが正で、どちらが悪かという話ではない。
結局は、それぞれの場合に、自分の行動はどのように変わるのか。また、相手の行動への影響はどうか。ここまでセットで考えることが重要である。私の場合、人に期待してあてが外れた場合の、気持ちの沈みとリカバリーに必要となる予定外の時間をできるだけ減らしたい意向がある。だから、人に期待しないことを選択するようになった。これには、他に良いこともある。誰かが自分のために何かしてくれたとき、私の中では、いい意味で予想外となる。ものすごく嬉しく感じるし、ありがたいと心から思える。もし仮に、人に期待している状態であったら、やってもらって当たり前としか思わないと思う。心から感じた感謝の気持ちは、表情や行動にあらわれ、次の行動と他の誰かへの貢献に自然とつながっていく。この連鎖がうまれているところは、きっと居心地もよいと思う。
ひとつの例外、なぜか期待がうまれてしまう存在
人に期待しないで生きる、その概念を軽々超えてくるイレギュラーな要素が、実はひとつだけある。それは、我が子という存在。人間の本能に近いものなのか、気づくと息子や娘には期待してしまっていることが多い。期待するということは、結果彼らに意識が向いているということ。つまりは、子孫が生きていくために、見捨てないというための仕組みなのかもしれない。こどもたちが、ひとり立ちしていくまでの見守り機能。私の場合、ベースの生き方とここだけが異なるので、戸惑いも多いが、こどもたちが十分に大人になった時、この機能がどうなるのかはとても興味がある。
「期待すること」と「期待しないこと」
最後に、私は人に期待しない生き方が自分には合っていると思う。いろいろな人が、いろいろなことをしてくれてラッキーだと感じて生きていられるのは幸せなことである。もしかすると、物理的には損をしていることが多いのかもしれない。ただ、そんな状況さえも肯定的に感じられていれば、それでいいのではないかと思う。
近年、自己肯定感という言葉をよく耳にするようになった。私は、自己肯定感がだいぶ高い方だと思う。自己肯定感が高い人というのは、自分だけでなく、実は他の人もその人の苦手も含めて肯定しているのかもしれない。
他の人もそのままで、ありのままでいい。
だから、自分もそれでいいじゃないかと。
自分を偽らず、自分の得意なことや好きなことを自分で決めてやり続けること、これがきっと、他の人の苦手を少しずつ埋めていっているのだと思う。明日からも、迷わずやり続けようと思う。