昔話 ライター修行 その66
就活失敗 電話はかかってこなかった②
8月20日、解禁日。初めてM社の会社説明会へ。ほかの出版社では、いかにも「オヤジ」って感じなスーツ姿の男性が説明に立っていたのに(周囲にいた女性社員はみなスカートで厚化粧)、M社の説明では、パンツスーツにすっぴん(ひょっとしたらすっぴん風かもしれない。でもそれだけ、ナチュラルメイクだったということだ)の女性が、颯爽と登場。あまりのカッコよさに、私の「本命感」はますますヒートアップしたのだった。
説明会と同時に、簡単な作文があり、次に筆記、大人数での面接、個人面接、と採用試験は進んでいった。試験の中には、知識を問うものだけでなく、いきなり紙を渡されて
「自分の好きな雑誌の特集の、コンテと企画書を作ってください」
という超実践的なものや、ファッション雑誌を数多く出しているM社ならではの
「次回の面接では、リクルートスーツを禁止します。あなたならではのおしゃれをしていらしてください」
といったものもあった。
M社に出かけては、家に帰って次回の採用試験の連絡電話を待つという日々が続き、ある日
「次回は、最終面接ということになります」
という連絡が入った。学生達のあいだでは、 "最終面接まですすんで、落とされることはまずない" というウワサが飛び交っており、私もすっかりその気になって面接会場にのぞんだ。
ところが……。今思えば、私は社長を含む重役数人とのその面接で大きなミスを2つ犯したようだ。ひとつめは "雑誌に対する不満は?" という質問に
「広告が多すぎる。読み手は広告を、あまり歓迎しない」
と答えてしまったこと。
ライターをしていたのに、雑誌における広告の重要性をまったく認識していなかったわけだから、これは勉強不足以外の何物でもない。念のため説明しておけば、雑誌の利益は、雑誌そのものの価格というよりも、広告収入から得られるのだ。つまり広告がたくさんはいっている雑誌=儲かっている調子のいい雑誌、という意味。それを否定したわけだから、重役達は内心あきれていたことだろう。
そしてもうひとつは
「お酒がまったく飲めないそうだけど、人生の楽しみの半分を逃しているような気がしませんか?」
という質問に
「そうですか? 私はお酒を飲んで時間を無駄にすることこそ、人生の浪費のような気がしますが」
と生意気に答えたのである。ま、これは今でも半分はホンネだけれど、人付き合いが重要な「編集者」としての資質にかけると思われてもしかたがない大減点だと思う。
つまるところ、私は編集者のお仕事というものを、きちんと把握していなかったということだ。
当時の私は
「雑誌"O"作りに参加したい」
ということしか頭になかった。編集者とライターの仕事の違い、そしてそれに向く性格の違いなんてちっともわかっていなかった。
編集者は人と人をつなぐのが、最大の仕事だといっていいと思う。もちろん企画力など、ほかに必要なものもあるけれど、まずは自分の担当した記事に必要なスタッフ集め、取材先選びが重要だ。アポ入れや申し送りなどのマメな連絡、原稿料の支払いや送本などの、雑用をサクサクこなす事務能力も忘れてはならない。今思えば、どんぶりでアバウトな性格、おまけに人付き合いにはクセがありすぎる私には編集者は向いてなかった。
結局、卒業後一度も会社に所属せず、ボーナスももらわず(もらいたい!)、ライター業を続けている私。最近になってやっと、父のいう「縁」がライターという仕事と私の間にあったのかな、と思っている。
就職試験に落ちてへこみまくった私だったが、大川さんの仕事だけはズル休みするわけにいかなかった(前回のいきさつ通り、皇室の仕事は辞めていた)。
相変わらずタコ部屋に監禁(!?)されて、原稿を書き終えたあと
「ダメでした」
と大川さんに報告した。
「ふ~ん、で、どうするの?」
「とりあえず編プロ(編集プロダクション)にでも入ろうかと……」
そういったとたん
「編プロに入って修業する人もいるけどね、ボク自身の考えを言わせてもらうと、編プロに入るとそこの編プロのやりかたや原稿の書き方に染まって、色がついてしまう人が多いんだな。仕事も自然に限定されてしまうし。ところで森下ちゃん、どう? 書く仕事は好き? 続けられると思う?」
「はい。書くのだけは好きです、私」
「じゃさ、フリーでやんなよ。フリーで。とりあえず、ボクが教えられることは教えるし、ほかの編集部にも紹介してあげる。先輩のライターさんからも、仕事もらえばいい。うちからもアパート代くらいの仕事はコンスタントに出すから」
思いもしなかった大川さんの提案に目を白黒させていると
「そのかわり厳しいぞ。もうバイトじゃないんだから」
びしっといわれた。私の甘い気持ちを誰よりも鋭く見抜いていたのは、やっぱり大川さんだった。
「もう逃げられない」
そのときの正直な気持ちだ。でも私は、こうして本物(!?)のフリーライターとして、やっと歩き出したのだった。