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昔話 ライター修行 その65

就活失敗 電話はかかってこなかった①


[注釈]ナナ話は完結したので、またつらつらと、ライター昔話を。これは私の超短かった就活体験です。

――電話はかかってこなかった。夜まで、夜中まで電話の前でひたすら待ってみたが、電話は鳴らなかった。とても図々しい物言いだけれど、なぜ、かかってこないのかわからなかった。私が唯一入りたい出版社なのに、どうして?どうして?どうして?

 眠れない夜を過ごした翌朝、速達で薄っぺらい封筒が届いた。開けなくても結果はわかっていた。

「大変残念ですが、今回、当社とはご縁がなかったということで……」
 と書かれた不採用通知。なんだかとっても理不尽な気がした。挫折は初めてじゃないけれど、明日というものが真っ暗なブラックホールになってしまったような気がしたのは、初めての経験だった。

 気がつくと私は受話器を握り、実家の父に向かって大声で泣き叫んでいた。
「落ちた~。落ちちゃった。最終面接だよ? どうして? どうして? 私のどこがいけないの?」
 仕事中だった父は、しばらく押し黙った後、こういった。

「就職なんて、縁なんだよ。恋愛と同じ。お前が熱烈に片思いしても、相手がピンと来なければ、それは縁がなかったってことなんだ。お前のすべてがいけないってことじゃない。縁、そう縁なんだよ……」

 そう。大失恋以上のショックだった。書類や筆記試験ならともかく、面接で落とされるなんて、私の人格そのものを、行きたい会社から全否定されたような気がしたのだ。

 学生時代からライターをしていた私は、卒業したら出版社に入ろうと思っていた。ライターはあくまでバイト感覚の社会勉強。卒業したら、どこか会社に入らなくちゃ。いや、入るのが当然、くらいに感じていた。

 今、思えば、自信過剰で妙にコンサバティブな考え方だが、当時の私にとっては、今までの学校選択・受験と同じようなもの。ごくごく当たり前の気分だった。当時から一生働きたいとは思っていたが、それはあくまで会社員として。フリーランスで食べていくなんて、私の人生の選択肢の中には入ってもいなかったのだ。

 時代はまさにバブルの絶頂期。「男女雇用機会均等法」が初めて施行された年でもある。就職状況は超売り手市場で、友だちは3つも4つも大手企業の内定を取り、よその会社に逃げるのを防止するために研修と称した海外旅行に連れて行かれたり、高級レストランで毎日のようにごちそう責めにあっていた。

 私はといえば、4年生になっても、出版より先に採用が決まる他業種を訪問して「保険」をかけることも、各社で行われているマスコミセミナーに参加することもせず、バイト感覚のライター業に精を出していた。

「ま、なんとかなるでしょ」
 とゴーマンにも思っていたのである。
「あのころ私はバカでした……」。
 今となってはそういって赤面するしかないほど、私はオバカだったのだ。

――出版社といったが、実は私が入りたい出版社はただひとつだった。さらに恥の上塗りをすれば、働きたい編集部は、その会社の中でもたったひとつだったのだ。

 少女向けのファッション誌「O」こそが、当時の私が
「これぞ私の働く場所」
 と、勝手に思いこんだ運命の編集部である。

 当時、モデルがジャンプしたポーズで、ティーンのハートをわしづかみにしていた人気雑誌。私自身、大学に入ってからも、その雑誌の熱心なファンだった(当時のファッションも「O少女」そのもの。世の中は女子大生、ディスコ、ボディコンブームだというのに)というのが最大にして唯一の理由。

 本命のM社の前に、とりあえず説明会に行ったり、テストを受けた大手出版社もあった。でも
「うちには不動産がたくさんあるから、今後10年間、本が1冊も売れなくても、当社は今と同じ給料を全社員に支払うだけの体力はある」
 と豪語したS社や、のっけから

「雇均法なんて騒いでるけど、うちは今年、女性は取る気ないから。受けてもいいけどそのつもりで」
 といいはなったS社(女性誌でガンガンもうけているくせに)など
「私が入りたいのはココじゃない」
「やっぱりM社だ」
 という思いを強くしただけのことだった。
(つづく)

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