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これからの「ビジョン」の話をしよう

今日も空がきれいで、少し“くも”がみえる。
薄く広げた、、なんだろう、何かに例えたい感じ。考えているうちに見えなくなった。
大通り沿いだからか、田舎だからか、バイクの大きな音が時折聞こえてくる。ほら、今度は2台。
風が心地よいけれど、まだ少し肌寒い。さっきついた店のライトが、飲みかけのコップと僕の左頬を照らしている。

はじめてのnoteだから、そう思って書き始めてみたけれど、
こうやって、一つずつ感じられる時間は、やっぱり心地いい。


さて、最初の投稿だから、やっぱり
「ビジョンの話をしよう。」

また地に足ついてない!
おっと。職場じゃないからそう言われないで心置きなく表現できる。
では言わせてもらおう。

僕は紛れもない、教育者だ。
そして、教育者にとって本気で一番大切だと考えているのが、ビジョンだ。

意識高い系は、本当はこの世界にこそ必要な存在

ビジョンとはなにか、ビジョンはどうやって描くのが正しいか、そんな話をするつもりはない。
これからするビジョンの話は、教育者にとって必要な資質の話だ。

ビジョンや資質、そんな話をすると、ややもすると意識高い系と揶揄されかねない。しかし意識高い系というのは、見方を変えれば本当にこの世界には大切な存在だし、僕が思うに、時代を重ねるごとに意識高い系の数は増えていくはずだ。

上の空、地に足ついてない、そんなふうにまるでハムスターを箱にしまうように扱われがちなビジョンが、本気で大切だと考える理由を説明していこう。

ビジョンは「知識量」に比例する

ここから先は、ビジョンを「描いている世界」と言い換える。ただしっくりくるから、というだけだが。
まずは僕が描いている世界の話をしたい。

その前に、少し言い訳がましいと感じるけれど、描いている世界はそもそも、その人の持っている「知識量」に比例すると思う。
ここでいう知識というのは、何かに詳しい、博学である、というだけではちょっとさみしいように感じる。感性とか、知性とか。深い内省に基づいた思考とか。そういうのも全部ひっくるめた「知識の量」に比例するな、とそう感じている。

だから、僕がここに描く世界も、これまで読んだ本や、尊敬する人と話したことや、同僚や友人との間に起こった経験だとか、そこから感じて考えたこととか、そういうのに強く影響を受けていると思う。

だからこそ、この描いている世界が、そこに至る道筋まで含めて
完成しているものだとは考えていない。

まだまだ、この人の言っていることはすごいなーとか、この人の描いている世界を自分も見たい!とか思うことがたくさんある。

つまり、僕はこれから、僕が描く世界の話をするけれど、まだまだ浅いかもしれないし、それにすっきりしているわけでもないんだよ、ってことを言っている。
だからこそ、少し自信なさげに、だけど力強く、僕の描く世界の話をしたい。

「平和な世界を創りたい」

ありきたりと思うかもしれないが、それはきっと違う。
なぜなら僕は、紛争をしている地域を訪れたこともなければ、路上で生活している貧困にあえぐ少年に出会ったこともない。そもそも海外に行ったことがない。

そんな無知だからこそ、「平和」って言葉のハードルを上げまくっている。
そもそも、毎日3食のご飯を食べられている。明日死ぬかもしれない、なんて緊迫した状況にもいないし、本当に“平和ぼけ”して「まだ人生ながいし」本心ではそう思っているのも、自分が一番よく知っている。

でも、だからこそそんな環境でこんなことを本気で語っている自分が、世界にとって大切な存在だと本当に思うのだ。
僕がなくしたいのは、
「争いたい衝動にのまれる心」そのものだ。
多分その時、多くの場合に「自分を守ろうとしている」。
生理的な欲求を満たすためなのか、所属、尊厳を感じるためになのか。
とにかくそこから開放されている状態が、本当に自由な状態だと思う。

そして、人が本当に自由に生きるために大切だと思うのが、意識が高まっていること
つまり、意識の高い人が増えることが必要だと思っている。

少し前から耳にするようになった「ティール」という言葉。もう少し前に流行った『嫌われる勇気』(アドラー心理学)でいう「共同体感覚」。マズローの自己超越の段階。そういう感覚を持つ人。

その段階で初めて、分離させられた世界が統合へと向かう。

そこまで意識が高まることで、頭ではなく、文字通り心で「他人や社会が幸せそうだと、自分も幸せだな〜」そうやって感じられるようになる。そしてすべての人がそう感じられたら、平和な世界になる。すごく単純な話だけど。

そしてそう感じられていない人たちの中では、些細なことから小競り合いが起こる。その世界ではきっと、まだまだ小さな差別が起こっているだろうし、“自死”を選ぶ若い人も多いことだろう。

ただ、意識が高まるためにはきっと、ある程度生理的な欲求が満たされていたり、“生きていける”安心感、所属、何かを達成できている安心感が必要になる。
この国には、少なくとも僕の周りには、そういう安心感が一定満たされた人が多い。そして、人のそれを満たすのは、「他人や社会を幸せにしたい」と感じている別の人である。

つまり、平和な世界を創るのは「意識の高い人」なのである。

多分できることは、安心できる場所をつくること

「そんな簡単じゃない。」
そうだろう、だからこそまだ世界中で、みんな一つずつ、一人ずつに向き合っている。僕が向き合いたいのは、『どうしたら人間の意識は高まるのか』ということなんだと思う。

簡単な仮説を持っている。それは、
意識が高まる組織、コミュニティの中で過ごすこと。
そんなコミュニティには、学習することが推奨される環境がある。そこにはいくつかの条件がある。
・ミス、弱さをさらけ出せる
・心が向いている活動をする自由がある
・人として対等に学び合う
・存在目的を大切にしている
こういう安心できる環境をつくることが大切だろう。

今の時代、すでにいろんな人が、本当にいろんな場所でこういう環境をつくっているように感じる。そんな時代には、意識が発達することを大切にする“学校”が必要だと、切実に感じているのだ。

もっというと、そのために仕事をするのが「教育者」と呼ばれる人だし、学校こそそういった環境になることが大切だと思う。しかし今の教育現場は、全くそれに向いていない。このことは別でまた詳しく述べていきたい。

とにかく僕は、子どもが平和な世界を創りたいと生き生きする、学校をそういう場にすることで、平和な世界を創りたい。そう思っている。


ビジョンとは、共鳴し合うもの

さて、どうであったか。
描く世界がどうのという話も伺いたいものだが、その世界をありありと、あたかも見えているかのように好き勝手に語る姿は。

きっと無知なんだと思う。だからこそ、本気で毎日こんなことばかりを考えて生きていて、たくさんの人の描く世界に共鳴して、今の自分がいる。

やっぱりビジョンとは共鳴するものだと思うのだ。
だからこそ完成していなくていい。
人と出会うたびに、共鳴し合って世界が広がっていくのが楽しくって仕方がない。そもそもビジョンという辞書の中に「完成」という言葉はないのかもしれない(かっこいい)。

そしてそれは、子どもに対しても同じなのだと思う。
子どもが世界を描き、それを実現させ豊かに生きていくためには、大前提として、ありありと世界を描き語ってくる多様な大人という環境が必要だと思うのだ。

今はICTがずいぶん浸透してきたから、子どもが関わるのは「教師」だけである必要がなくて、そういう「外の」大人たちと子どもをつなげていきたい。そして「外」という概念がない学校を創りたい。
学校ってなんのためにあるかというのを考えると、どうしても「豊かに(幸せに)生きていくため」というのは条件から外すわけにはいかないわけだが、豊かに生きていくためにも、自分で世界を描き、それを具現化していくことが必要だと思うのだ。

重要なのはコミュニティ

その第一歩として、一人ひとりが自分の中に描いている世界に意識を向けることが必要だと思う。この記事のテーマがビジョンなのはまさに第一歩だからこそなのだ。

そのためには、そこに共感し合える心理的な安全性の保たれたコミュニティが必要だと思う。つまり、教員がビジョンを堂々と掲げて語れる職場であることが大切だと思うのだ。

いまも職場で教育者たちが意識を高くしていられるよう、何か心の向いている活動を自由にできる機会をつくったり、対等な関係で学び合うためにも弱みを見せ合ったりしている。そのためにも自分が、そういう在り方でいることがやっぱり重要なのだとつくづく思うのだが。やることは教室と何ら変わらないなと思う。


世界を描き、それを実現させるために生きていくことはやっぱり幸せだし、だからこそそういう学校であることが必要だと思う。そして教員にも世界を描き共鳴し合う資質が必要で、コミュニティの文化や慣行によってそういった意識の発達に影響を与えるだろう。そういう話だった。

ちなみに資質って「生まれつき備えている性質」という意味らしいが、僕はだからこそこの言葉を使いたい。すべての人が生まれつきそれを備えているし、描き方は様々でもどんな人も描く世界を実現していけることに幸せを感じると信じている。


今年の「クラス」の話をしよう

そういうわけで、こうやって描く世界を目の前から一つずつ創っていくことが、最近は本当に楽しみになっている。だから、今年担任のクラスで、こんなことしたい!というのを堂々と語って締めくくろうと思う。

今年担任のクラスでは「全員が、創りたいなと思う世界を一言でも語れる」ようにしたい!最後のHRでぜひ一人ずつ話を聞きたいし、全員から聞けたら本当に感動だなあ、と思う。

これからの「noteの使い方」の話をしよう

マイケル・サンデルは大学生のときにハマっていたのだが、全く今回のテーマとは関係ないので、そろそろこの話も終わりにしようと思う。

せっかく自分の描いている世界に意識を向けているからこそ、実際にそんな世界を僕が創り、見てみたいと思う。

これから、描いている世界を実現させていくための「具体的な学校の姿」と「そこを見据えていま現場でどんな活動をしようか」ということを、思いついたことから発信していこうと思う。気づいたら「あれ、学校できそうじゃん」となっていることを期待したいし、早くその段階にいたいとも思う。


なんだか胸が弾むのを感じる、わくわくしてきたぞ。






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