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子どものために「心理的安全性を高めましょう」、をやめたい。

僕は前を向き続ける。
ひっきりなしにできる“もよう”が、すぐに視界をぼやかしていく。そしてすぐに消されたと思ったら、またすぐにできあがる、それが繰り返される。
雨で湿ったアスファルト独特のにおいすら流してしまうこの季節に、それでも僕は前を向き続ける。たどり着くのはいつもの場所と知っていながら。
この繰り返しには、あまり心地よく感じない。新しい景色を見ることを本当に心待ちにして、僕らは前に進み続けているのだろう。


何事もやってみてからでないとわからないこともある。
文章をまとめるのって難しいですね。なんだか書いているうちにどんどん長くなってしまいます。汗
今回は大枠の話になってしまったので、次回からは具体的に、かつ端的に記事にすることにチャレンジしたいです。

心理的安全性が大切だと思う

最近とてもこのことを感じています。勤務する学校自体の特徴もあると思います。
「心理的安全性」という言葉は、いろいろなところで耳にすると思います。詳しい説明は他に譲りますが、そもそも自分の中に安心して、ゆとりをもっていなければ、人はチャレンジすることができません。新しいものも生まれなければ、生産性も上がりません。
なかでも、チームの生産性を高めるためにはこの心理的安全性が鍵になるとGoogleのリサーチチームが結論づけたことは有名だと思います。

その時、こういった「不安」を排除することによって、チーム全体にとっての価値を最大化することができるようです。

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ということで、心理的安全性を高める工夫は、一にも二にも、まず始めるべきなのは間違いないでしょう。
ただ、ちょっと待ってください。この「心理的安全性を高めましょう」ということすら、ちゃんちゃらおかしいということを、僕は今回述べたいと思っています。

心理的安全性の視点を変える

理由は2つです。
『学習 と 心理的安全性 というのは比例すると思うからです。』
『「ありのまま」という安心感こそ、人が豊かに生きるために必要だと思うからです。』

まず、『学習と心理的安全性が比例する』ということについて述べます。

僕は結局、人間は学習能力しか能がないのだろうと思っています。まっさらな状態で生まれてきて、まるでスポンジのように多くのことを学習していきます。そのため、いかに学習が起こる環境をつくるかこそが、様々な成果にも結びつく大切な要因だと思います。
人がついつい没頭してしまったときのように、心から学習したい欲に駆られて学ぶときが、一番学習効果が高いと思います。

人間は「自分のことを嫌いになる」ことを最も嫌います。そのため、余計な見栄や防衛心で自分を守りやすい。そのためどうしても、学習することよりも、自分を守ることを優先してしまいます。すっごい嫌いな人に、どんなに正答な意見を言われたとしても、それを受け入れない理由をどうにか探し出してしまうと思うんです。逆をいうと、自分がいくら正答な意見を言ってもなぜか納得してもらえないのは、自分がもっと人として好かれる(というより相手を好きになる)必要がある場合も多いということです。
だからこそ、「学習する」ことを一つ目標とする場合、ありのままというレベルで受け止められる心理的安全性が必須であると思うのです。

次に『「ありのまま」という安心感こそ、人が豊かに生きるために必要』について。

「〜せねばならない」と外から圧力がかかり学習が促されると、そのときに使った(使われた)ものにこだわり、すがりつき、手放すのが本当に大変になる。学校という場所が子どもが育つ場所であるのならば、極限まで自分や他者へ苦しみを生んでしまう方法は避けたいものです。
そのとき、「ありのまま」の自分が受けとめられた上で「ありのままの自分を発揮するために」と自分で思える場合には、「〜したい(せねば)」はあってもよいとは思います。

僕はまだ若いです。(と思っています。)僕自身、自分の人生を生きていたいと思っています。子どもたちにも、自分の人生を生きてほしいものです。「本物の自分で生きる」こと、もっというと「自分のわくわくに向き合っている人生」を歩んでほしい。
見栄や、防衛心を育んでしまうことは、本物の自分で生きることを阻んでしまうと、つくづく思うのです。
他者を幸せにする感覚も同様です。「他者のためになりたい」と感じる心が育つとき、余計な見栄や防衛心が邪魔してしまうのは本当にもったいないと思います。「誰かのためになっている」という感覚ほど、人生の豊かさを増してくれるものはないと思うからです。

つまり、人生を豊かにする、幸せに生きることを目指す教育現場では、心理的安全性を高めて学習を起こすというのは、大前提であってほしいのです。
だからこそ、『子どものために「心理的安全性を高めましょう」』とわざわざいうこと自体を、もうやめたいのです。

「らしさ」がにじみ出るまで

人生を豊かにするために僕は、本物の自分を発揮できていることが結構大切だと思っています。
そして、本物の自分を発揮している人を見ると、
「らしさ」がにじみ出ていると感じます。

世の中のことについても、自分自身についても
「こういうところが好きだな」という箇所を見つけていくことで、「らしさ」がにじみ出るようになると感じています。
そのためにも、
・他者を大切にする という環境の中で、
・自分のことを発見する(内について・外についての感性)
・「自分のことを大切にする」を知る
空間を丁寧に整えていくことが大切だと感じています。


「らしさ」がにじみ出ていると感じる人は、常に他者へ影響を与えているように感じます。にじみ出ているわけですから、気が付かない間にも誰かに何かを感じさせています。
こういった「らしさ」がにじみ出るためには、自分の中にあるらしさを見つけて、少しずつためておくことが必要だと思います。そのときに、その「らしさ」が他者のためになっていると感じる場面があれば、その心地よさすらにじみ出て他者にも伝わるように思います。
そして最も重要なのは、これはすべて「自分を大切にすることから」始まるように感じます。自分を大切にする、という感覚は、自分が大切にされている実感を持って学習していきます。

これは致し方ないところもあるかとは思いますが、それが十分に学べなかった(感じられなかった)場合、大人になって「ありのままの自分に気づいて、受けとめてあげよう」と多少苦しみながら自己を受容していくことになります。
できるのであれば、ありのままの自分が大切に「される」環境(関係)の中で、自分を大切にすることを学習していってほしいものです。


心理的安全性の高いコミュニティに所属できる“学校”

「らしさ」を軸にすると、学校はどんな場所になるのだろうか。
チームでも、不規則に集まった集団でも、自分で選んだ大人と相談できるといいかもしれない。そうなると間違いなく関わる大人の役割は、かなり専門性の高いものになるはずです。コーチ、学者や教授、メンターや伴走者、コーディネーターやプロデューサー、学校という枠を一切取っ払った中でそれぞれが専門家として子どもに向き合っていきます。そういった中では常に「心理的安全性」には当然のように注意がはらわれます。

これは実はそんなに難しいことではないと思います。「そのままのあなたで、十二分に素晴らしい」そのメッセージさえ共有できればどれだけ安心・安全を感じられるか。
しかしこんな単純なことだからこそ、ないがしろにされやすかったり気づかれにくかったりされてしまう現状もあると思います。だからこそ、意識してそれをつくり出すということが必要だと思うのです。その姿勢は、大人も、子どもも、ときにちょっとだけ努力してつくるものだと思っています。
「弱みも本心も共有して、一緒に前を向いて歩いて行こう」そういう姿勢が大切だと思うし、それは気づいた人から始めていく類のものと思い、自分から始めていきます。こういった大人が、特に子どもに関わる大人の中でマジョリティになることを願って。

そういった中で、所属できる“コミュニティ”を選んだり、自分たちでコミュニティをつくったりできるといいなと思います。
新しい学校では、「学校」という枠を完全に取っ払ったわけですから、そのコミュニティにはいろいろな大人が関われることになります。大きな学校というコミュニティの中にある、小さなコミュニティに所属する。そのコミュニティは間違いなく学習するコミュニティとして、それぞれにビジョンや大切にしている価値を持っていて、そこに向けて大小あるプロジェクトに日々取り組んでいる。そしてそのコミュニティに所属できるのは何も、物理的に近くにいる人に限らないことも考えられます。

そこでは、自分自身すら弱みを見せて、フレーミングをするリーダーがいることが望ましいと思います。
そして、心理的安全性を高めて学習を促進させるためにも、「失敗を進展させる」「自分のメンタルモデルというか、目標達成を阻害する世界の見方に向き合える」慣行を実施していると思います。

だからこそ「心理的安全性」が必要なのはコミュニティ全体

さて、こうなってくると学校は、ありのままの子ども自身の「わくわく」を軸にしていくことになります。すべてのことの軸になります。
カリキュラムも、時間割(その存在意義から)も、学び方も、そして教員の在り方も。

今ある学校現場からもそれを始めていきたいものです。
しかしやはり教員も人ですから、そう簡単にいくとは思わずに、少しずつグルグルと、とにかく向かっていくことが大切だと思っています。それだったらどんな現場からでも始めらるはずです。「立場もあるリーダー」がそこにいなくても。

そのためにも職員室自体を「安心・安全な場」にすることが大切です。
・とにかく対話の数を増やし、意見の裏側にある理由に耳を傾けて肯定する
・その上で対話ベースで意見を交換し合う
・対話の中で「これやりたい!」を発掘したら、全面的に協力したり何なら自分が原動力になって一緒に走る
・プライベートな自分を表現できる時間を意図的につくる(例えばミーティング前のチェックインなど)
・研修会という名目で、価値観や想いを共有して、存在(目的)を承認し合う機会をつくる
・自分自身、できないことを積極的に伝えて教えを請い、学ぶ
こんなことから始めています。

例えば教室で、
そもそも教室(クラス)というのは、自分から集まりたくて集まったわけでもなく、ランダムに集められることが多いです。しかしそんな集まり方も一方で必要になると思います。「自分が何を望んでいるのか」「どんなことを大切にしているのか」そういったことを見つめていくときにも、コミュニティがあり、そこで所属感を感じることが重要だと思います。「どうしたらより所属感を感じられるだろう」または「安心して所属感が得られる中で、もっとこんなことしたいな」そう感じられるきっかけがそこから生まれると思うからです。
だからこそ、クラスというコミュニティでは、すべての人が「自分が、価値があると感じていること」を表現できる安心感をつくることが必要だと思います。具体的なアクションとして、
・担任として上手くいかなかったことは積極的に認める(謝る)
・担任として「柱としてそこにいてくれる安心感」は出しつつも、一方で完璧でないからこそ子どもたちの協力を積極的に求め、感謝を伝えていく
・あいさつや朝の出席を全員呼名することから始まって、積極的に子ども一人ひとりの存在、考え、行動、出した結果を肯定するよう声をかけ続ける
・クラスでの日々の生活が楽しいことが大切であり、そのための努力はみんなでしていくから楽しい空間になることを伝え、そのための仕事を係として設ける(目標や想いは共有し合い定期的に振り返る、担任として一貫性のある態度をとる)
・クラスの仕事、役割などは自分で選択できるようにして、選択した理由(想い、関心)を問うことで自己認識、自己開示、自己表現の機会をつくる

その上で総合的な探究の時間を使って、
・全員で安心・安全な場をつくっていく言動や態度を考えたり、肯定的な感情を全体で共有したり、存在ベースで承認し合う活動をする
・自分の外側にある世界の中から関心のあるものを選び、それを掘り進めることで自己認識、自己開示、自己表現の機会をつくる
・その他教科学習等で、明確な課題があるときには、目標、課題、時間を明確に示した上で、「クラスみんなの力で全員が達成する」ことを求め、そのための言動を承認していく
ことから始めていきたいです。

こうやって少しずつ、学校全体が『学習する学校』になると面白い場面がもっと増えると思います。
その中で自分も子どもと一緒に、例えば委員会活動一つとっても「こんなことができるのか!」ということを見せていき、学校はさらに推進力を持って楽しい場所にしていきたいです。


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