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「羊」はある意味日本人の逃れられぬ「宿命」

日本人が「羊」と言われるようになって久しい。「羊」のように大人しく従順で社会の欺瞞に対して声を上げることも少なく、「なんで日本人は海外みたいにデモしないんだ」みたいな意見もよく聞かれる。また一方では「治安が良いからやっぱり日本はいいよね」とも言う。この「デモしない」「治安が良い」は実はワンセットの概念でもあり、例えば日本人が従順な「羊」でなく獰猛な「狼」なら、デモは起きるかもしれないがその分治安は危うくなる。

日本においては権力と民衆が「対立関係」になく、政府が「お上」だという感覚が潜在的にある。「上」だから逆らわない方がいい、という感覚になり、それが「デモしない」「政治的関心の無さ」にも表れている。ところが日本以外、とりわけ王政でない革命で歴史が寸断された共和制の国などでは、「お上」ではなく権力と民衆は「契約関係」「契約」が守られなければ「対立関係」になる。それが「デモする」「政治的関心」にも表れてくる。

「羊」であることは感覚的にはすごく嫌なものがあるわけだが、それは一方で日本が歴史の長い、革命で歴史が寸断されてない国であることを表してもいる。個人と個人でも付き合いが長ければ言わなくてもわかる「不文のルール」ができてくるように、国家も歴史が長ければ明文である「法」とは別に「不文のルール」というのが人々の間で醸成されてくる。それが「いちいち言わなくてもわかる」→「空気読む」という日本人の習性にもつながっていく。「なんで日本は世界一マスクを外せなかったのか」の答は「世界一歴史がある国」だから、という事でもある。

この歴史が長いが故の「不文のルール」が「マスク」という悪習を生み出してしまったのは否めないのだが、この「不文のルール」に日本人は無意識に助けられてもいる。例えば仕事の依頼を受ける時など、慣れている相手ならほとんど「口約束」で、いちいち面倒な契約書を何枚も何枚も交わすようなことはない。「不文のルール」故の「約束を守る」という「文化」が無意識に出来上がっているからで、「不文法」とは真逆の、「明文法」の欧米契約社会では恐らくそうはいかない。

アメリカのマクドナルドでコーヒーをこぼして火傷をし、客がマクドを提訴したみたいな話も歴史が浅く、「不文のルール」の無い「明文法」の世界だからであり、「不文法」の日本なら「お互いさま」で恐らくすぐ和解する。そのように相手をとことんやっつけない「やさしさ」が良きことでありつつも「羊」に繋がってしまう脆さでもあり、「羊」はある意味日本人の逃れられぬ「宿命」かもしれない。

※実際にこんな羊はいません


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