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文化を生み育て、発信することが日本の生きる道

ちょっと前のこと、「ゴジラ1.0」がアカデミー視覚効果賞を獲ったり、つい最近では真田広之主演・プロデュースの「将軍」がエミー賞(アカデミー賞のテレビ版のようなもの)を獲ったりと、一昔前に比べると日本の文化は世界で評価されるようになってきた。そして大谷翔平は相変わらず記録を塗り替える大活躍で、これも一昔前だったら日本の野球が大リーグに敵うはずないというのが「定説」で90年代に渡米した野茂とかはけっこう嗤われたりもしたが、その間にはイチローの成功とかもあって、すっかりそんな「定説」は崩れ去った。

日本の文化やスポーツ選手が世界を席巻するのは率直に喜ばしいと思うがその反面、例えば大谷を「日本の宝」みたいに言うのを「気持ち悪い」という意見もあるらしい。確かに安易な「日本SUGEE!」で、凄いのは大谷なのに自らも凄い人になったように錯覚し、「日本人であるというだけでエライんだ」と勘違いしてしまうヘイトスピーカーみたいな人も中にはいる。「気持ち悪い」という人は「大谷が凄いんであって日本が凄いのではない」と言うが、じゃあ果たして個人の才能とその個人が生まれ育った文化的土壌としての国家は、全く無関係のものとして考えていいものなのか。

例えば大谷が日本でなく、野球なんて誰もやったことないような貧しい小国に生まれたとしたら果たしてここまでの存在になれていたかどうか。日本に野球をやる文化があり、それをやれる環境があり、そしてそれを娯楽として楽しんでお金を落としてくれる人々があればこそ、そういう文化的土壌があったからこそ大谷という一個人の才能も結実することができたはず。言論・表現の自由のない専制的な独裁国家では映画・音楽・漫画・アニメ等の文化が開花することはない。一個人の才能というのもその国が歴史の中で醸成した文化的土壌の上に初めて成り立っている。

政治もグダグダ、経済もガタガタの今の日本において唯一世界に胸を張れるのが「文化」であり、それは古代より八百万の神の1人であるアメノウズメノミコトが「芸の神」である事からも、この国が「文化の国」であることは示されている。アメノウズメが裸で舞い踊ったことで太陽神であるアマテラスがお出ましになり、闇に閉ざされた世界は再び光を取り戻すことができた。「文化」を生み育て発信することが日本の生きる道であり、闇で閉ざされた世界を照らすのは「文化」であり、「文化は不要不急」みたいな言説はそれこそ「日本の自殺」に等しい話でもある。


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