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「分からない」にいる難しさ サルトルの『嘔吐』と胎界主
どんなに元気がなくても、体調が悪くても、
私にできること。
それは漫画を読むことだ。
そんなわけで、日記以外見事になんにも続かない私であるが、漫画を読むことは続いている。
ありがたいことに、鬱で読書ができないとき(文字の上を目が滑って読めない、内容が頭に入ってこない)でも漫画は読める。
それはさておき、尊敬しているある人が、「胎界主」という漫画を教えてくれた。
「いろんな人におすすめしてるんだけど、誰も読んでくれないんだよね〜」とその人は言った。
その人は「凝り性」を美しい暮らしを作り出すことに全振りしてるような人なので、それはもう魅力に溢れた人だ。だから、その人のおすすめとあればみんなこぞって読みそうな気がするのになぁといぶかしく思った。
ちらっとサイトをみて、昔ながらのWeb漫画にある、癖のつよい絵柄のせいか、個人サイトから読むという媒体のせいかな、とほんわり仮説を立て、後で読むことに。
それで、第一部までよんでみたんだけど…
これは、漫画じゃない…!
離脱する人が多いのも納得の、読みにくさ…!
この感覚、わたしには覚えがある。
中学生のときに、憧れの絵師さんが好きな本だから、という理由で挑戦したサルトルの「嘔吐」とおんなじだ。
日本語として読めないことはないけど、全くわけわからん、なのだ。
図書館で借りた赤い表紙のその本は、それはもう集中しがたかった。なんとかイメージはできる。で、何がいいたいんだこれは?わたしは何を見せられているんだ?となる。
通学のバスのなかだけは、それ以外のことができないので読み進めることができた。
そして無事、途中まで読んでそっと図書館に返した。
高校生になって、新訳が出ているのを発見して、再挑戦。今度は読み終えることができた。
旧訳と比べてかなり読みやすくなっていたけれど、やっぱり意味はわからなかった。
文字を追えることと、本を読めることは別なのだと思った。
それでも、この意味不明な本を読み終えられた自分、そのように突き動かしてくれた、あこがれの力はすごいと思った。
その人が好きだという情報がなければ、きっと死ぬまで読まなかった本。覗かなかった世界。
それがわたしの人生に何かの益をもたらしたかは不明であるが、サルトルという人に親しみを覚えたことはよかったと思う。勝手に身内感のようなものを覚えて、いろんな場面で彼の名前を見るたびに、その活躍をお祝いするような、妙な嬉しさを感じるようになった。
話を胎界主に戻す。
あれは漫画ではなくて、難解な外国文学の類いなのだ。
だからサクサク読むことはできない。
ご親切にわかりやすく説明してくれたりしない。
置いてけぼりになるのがデフォルトというか、
置いてけぼりにされるのを楽しめるくらいの器が求められる。(そういえば進めてくれた人もドMだった)
え、ページ飛ばした?
と思うこと度々。
え、それでどうなったの?
と誰かに聞きたくなること度々。
固有名詞、見間違えそうなキャラクター、展開の速さ、複雑な世界観。慣れるまでに時間がかかる。
劇的な展開を、後生大事に強調してくれたりはしない。
サラッと描かれて、スッと次にいく。
また置いてけぼり。
その度に不完全燃焼というか、精神が宙ぶらりんという名の不安定になる。
テンプレやお約束といった分かりやすさの快感はない。修行感すらある…。
最終的に、読む→感想・考察サイトを覗く→読む
という流れで、なんとか精神安定しながら読み進めることができた。
(ちなみに感想・考察サイトの人々もクセが強い。読者も胎界主に染まっていくようだ…)
そう、「分からない…」にいることってすごく居心地が悪くて、わたしたちはすぐそこから抜け出そうとしてしまう。(ごめん、私は、かもしれない。)
読むのをやめるとか、「変なもの」として遠ざけるとか、解説に頼るとか。
でもその「居心地の悪さ」になにか大切なものがあるような気もする。
それを読んだとて、耐えたとて、憧れの存在に近づけるわけでもない。(むしろこれを楽しめるのか…と断絶すら感じる)
けれど、その人から見た世界を覗いてみたいと背伸びすること自体に、人間的な楽しさがあるような。
Web漫画&個人のサイトという媒体をつかうことで、自分の描きたいことを、描きたいカタチで、読者すら置いてけぼりで表現する。
そんな作者の尾籠憲一さんにはかっこよさがある。置いてけぼりにされたはずの読者も、そこに込められた熱量を分からないなりに感じとって、追いつかんと走り出す。あの複雑な世界が分かるようになる人もいるだろうし、分からないままついていく人もいるだろう。(私である)
そのマラソンみたいな段階(イメージとしてはハンター試験の会場まで延々走らされるやつ)を超えたときには、たぶん作者への親しみや好意、他の読者への謎の連帯感が産まれているような気がする。
ちなみにその人おすすめの「三体」もわたしは挫折した。友人から3冊借りて、初めの見開きから進むことができなかった。
その後オーディブルで途中まで読んで(聴いて)また折れた。たしか中国人の科学者の男性が処刑されるシーンまで。
今度はネットフリックスで映像化されていて、それは公開分全部楽しむことができた。
私の、ものにより諦めが悪いところ、実は気に入っている。