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目を閉じるとみえるもの

ダイエット、もとい理想の自分になるワークの一環として、毎朝10分の瞑想を日課としている。始めてから1カ月くらいたったので、気づいたことを書く。

僕のしている瞑想は、目を閉じて座り呼吸に集中する、というシンプルなもの。

瞑想中は呼吸に集中しないといけないのだが、全然呼吸に集中できない自分を見つめている。あ、このことをnoteに書こう、とか、あの人に連絡しよう、とか、今日はあれを食べるのが楽しみだな、とか普段よりむしろ考えている。

そんな、瞑想中の「目を閉じているが起きている時間」に、普段より感じられるものがある。

ひとつは「人の気配」。

一度、2歳と8歳のお子さんがいる環境で瞑想をしたことがあった。(「呼吸のじかんをするから、お話ししたりはできないけど、そばで遊んでても音を出しても大丈夫だよ」と伝えていた。)すると、2歳さんは僕の1m前あたりで電車のおもちゃで遊び、8歳さんはしたいことリストづくりに悩んでいた。顔のすぐそば、たぶん30㎝くらいの距離で、電車と電車が打ち鳴らされる音と風圧。触れているわけではないのに、子どもの高い体温というかあふれんばかりのエネルギーを感じる。「あとはなにを書こうかな~う~ん」と、ノートをめくりながら悩んでいる8歳さんの表情が目に浮かぶようだ。

ふと、いま自分は2人の存在を感じている。と気づいた。むしろ、目を開けていたときは、2人のことを見ていただろうか。多分、見えているのに見ていなかった。目を閉じているいまのほうが、2人に注意して「みている」って不思議だなあ、と思う。

今朝の瞑想中も、人の気配を感じていた。僕は寝起きのベッドに座って瞑想しているのだが、友人が階段を上ってくる足音、戸を開けて隣の部屋に入る、そのまま音も出さずに何かしているのだけど、その気配、存在を感じる。同じ部屋でなくても、目を閉じていると人の気配を感じるなあ、と思う。

そもそも、ほかの人が視界に入って「見えている」とき、「気配」とは言わない。気配は「感じ」たり、「する」ものであって、見えるものではない。人の気配、と言うとき、その人は後ろか、暗闇か、見えないところにいる。確かに「いる」んだけど、100%とは言い切れない感じ。それが気配かもしれない。


話が逸れてしまったが、もうひとつの「目を閉じると見えるもの」は「奥行き、空間の広がり」である。

目を開けているとき感じられる奥行きは、視界の範囲に限定される。せいぜいこの部屋と、窓から見える風景に。だが、目を閉じているときは、ここからは見えない空間までも感じられるのである。例えば、引き戸の外の階段、階下の部屋、頭の後ろの空間、外の道路の広がりも感じている自分がいる。

ちなみにこれは、瞑想だけでなく、サウンドスケープの専門家である田中さんという方の「ブラインド・ウォーク」(一人がアイマスクをし目を閉じて歩き、もう一人はそれをアシストするだけ、ペアで公園など自然のあるところを歩く。)でも、感じられた。むしろ、そこでの経験がきっかけになったのかもしれない。

おそらく、目を閉じる時にフォーカスしやすい「音」から空間の広がりを感じ取っているのだろう。階段を登る足音、工事の音、風鈴、近所の子供の話し声。 

「気配」にも「空間の広がり」にも共通しているのは、肌で感じている、という感覚だ。「そこに人がいる」「そこにも部屋やスペースがある」と感じるきっかけになる音が消えても、肌で「そこにいる・ある」ことを感じ続けることができる。


最後の瞑想中に感じるもの。これは、毎回ではないし、もっというと1回だけの体験なのだが、「過去に別れた・会えなかった誰か」である。「感じる」というより「思い出す」と言ったほうが近い気もする。

その誰かは、大人のこともあるけど、赤ちゃんや、生きてこの世に生まれることのできなかった命も含まれる。「あの人に、お世話になったな。あの人の存在があったから、1年でも頑張れたんだな」とか、「あの赤ちゃんは今はどんな子に育っているんだろう。」とか「会ってみたかったな。」とかいろいろ思うのだが、なんとなく、そういう人たちから「また、会えるよ」と言ってもらえたような、安心する感じがあったのだ。思わず涙が出るくらい。

これは友人の家に泊まった朝にした瞑想だったので、座っていた人間がいきなり泣いていてびっくりさせたかもしれない。が、自分ではすっきりして、ただただ気持ちがよかった。


そんな感じで、瞑想中に感じるものは、①今いる人の気配、②空間の広がり、③今いない人の気配(稀)、なのでした。今のところ。

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