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応援する本屋さんと、本の感想 (食う寝る遊ぶ 小屋暮らし/目の見えない人は世界をどう見ているのか)

前回書いた本についての記事 (2021年読んでほしい本と、読まなくていい本のこと)から1か月。

私が応援する本屋さん

応援する本屋は、志木市の宮川書店さんにすることに。

そこそこ広い普通の町の本屋さん、といった風情。ぎりぎり徒歩圏内。わりと大きくてほっといても大丈夫そう?と思いきや、2019年に支店が閉店されたり、やはり人口の多い埼玉でも書店さんは苦労されているようだ。

知人が教えてくれた本屋は、絶対どんな本もそろうけど私が応援する必要はあまり感じない、絵本がメイン、遠すぎる、などの理由で選ばず。折角勧めてくれたのにごめんなさい。

宮川書店さんは、私の師匠Y氏のお家のすぐ近くであり、Y氏がそこのヘビーユーザーであることも大きかった。これからもY氏が本を買いたいときに、近くに本屋がなかったら困るだろうから。

注文した本のなかには手に入らないものもあったが、ほとんどすべての本が揃った。ありがたや…。

(買えなかったのは、⑧ドノソ 夜のみだらな鳥 集英社 古書か図書館のみ
⑨J.M.G.ル・クレジオ 地上の見知らぬ少年 河出書房新社
15 ロベール・クートラス ローベル・クートラス作品集 僕の夜 エクリ
29 岡本太郎 美しく怒れ、の4冊。だれかプレゼントしてくれないかな)

そんなこんなで、本屋を決めるのが遅くなったので、1月は読む予定の本はまだ1冊も読めていない。(2月時点)

代わりに、友人が段ボール3箱分の本を譲ってくれたので、(さすがに多すぎたので、うち1箱分だけもらった)そのうちの2冊と図書館で借りた1冊をご紹介します。

本の感想を2冊ほど

1.中村好文 食う寝る遊ぶ 小屋暮らし PHP研究所


著者中村さんが、浅間山のふもとにある小屋「LEMM HUT」をつくり上げるまでの記録のような本。この小屋は一度行ってみたい場所の一つ。

建築家がどんな思考過程を経て、空間を、建物をつくるのか。少年の頭の中をのぞいているようでワクワクする。彼のコンセプトは「働き者の小屋」「線にも管にも(つまり命綱に)つながれていない住宅」。

個人的なお気に入りは「七厘レンジ」。炭火を置いた七厘がすっぽり嵌まるキッチンになっており、その台の後ろから外気が入るようになっている。

中村さんの「人の暮らしと住まいには、火が不可欠」という考え方も好きだ。

私は、その七厘を調理カウンターにストンと落とし込んでおさめる小屋用の「七厘レンジ」をデザインしました。~七厘をはめ込む丸い穴と七厘の間に断熱のための隙間を設けてあり、七厘はウォルナットを削りだした3か所の五徳に引っ掛けて使います。火力の強い炭火を入れた七厘は非常に熱くなりますが、五徳以外はどこにも接していないので安全なのです。燃焼に必要な空気が外壁に取り付けた吸気口から直接入る工夫や、引き戸を開け閉めして使用できることなどが、この七厘レンジの見所です。p62

中村さんは「デザインした」と書いているけれど、つい私は「発明した」と読んでしまう。写真やイラストがしっかり載っているこの本を通して、発明品というか、宝物の数々を目をキラキラさせた少年が見せてくれているような、そんな気持ちになる。


(ここまでを、2021年2月3日に書いていたらしい。放置しすぎて、残り2冊のうち1冊はどの本だったか忘れてしまった。のこり1冊の感想をサクッとかいて、次に進もう。)


2.伊藤亜紗 目の見えない人は世界をどう見ているのか 光文社新書



表紙かと思ったらでっかい帯だった。


この本は、ざっくりいうと「世界観が変わる」本。

「そんな風に世界を見てる人もいるんだ、自分ってそんな風に世界を見てるんだ、おもしれ~!」って体験がしたい人は、とにかく読んだらいいよ。この先は読まなくていい、私が何を語っても本の劣化コピーにすぎないので。私の文章はわかりにくくなると思うけれど、元の本はとってもわかりやすくて面白い、と断っておく。(私は何をやっているんだ。)


まず、タイトルからして不思議だ。見えない人がどう「見て」いるのか、なんておかしいじゃないか。そう感じたあなた、いい視点ですね。
それもちゃんと本の中で解説されてます。(ごめん、まとめるのやや難しくてあきらめた。)


視覚から情報が得られるかどうかによって、認識の仕方はかなり変わる。

同じ現実に生きているのに、それぞれの内側に立ち現れる世界は全く違う。そのおもしろさ。晴眼者(目の見えるひと)にとっての「ふつう」は普遍的なものではなくて、ただ単に数が多いってだけのことで。


自分の「ふつう」と自分から突き放して見直すのは、なかなか難しい。そんなとき、私たちには想像力を働かせて「視覚を使わないからだ」に変身してみる、という手があるんだよ、と伊藤さんは語りかける。そして変身するための手がかりを、視覚障害者の言葉や異なる認識のしかたをする人同士のやりとりから、教えてくれる。


見える人と見えない人。そこでは「サポートする/される」の上下の関係が取りざたされることが多いが、それはただ、この社会が晴眼者にとって便利にできているだけだったりする。見える人と見えない人の間には、あるとないの量の違いではなく、世界をべつのかたちでとらえているという質の違いがあるだけなのだ。


(本書の言葉を借りると「欠如」ではなく「全体のちがい」。伊藤さんは目をつぶった晴眼者を4本足の椅子から1本足が欠けた状態、目の見えない人を3本足の椅子に例えて、「目をつぶっても目の見えない人に変身することはできない」ことを説明している。この例え、天才すぎん?私には逆立ちしたって出てこないよ。)


逆に、晴眼者に特化して作られている社会というのは、逆に晴眼者にとって脅威にもなりえる、ということがある。

電車やSNSにあふれる広告をうるさい、と感じたことはないだろうか。「目を開けていなければ日常生活が送れない」私たちにとって、それらを完全にシャットアウトして生きるのは至難の業だ。

本の中では、視覚情報がないことで「目に飛び込んでくるものに惑わされなくなった」中途失明の方のエピソードに触れ、「情報に踊らされないで進むことの安らかさ」という価値があることを教えてくれた。


また、自動販売機や箱入りパスタソース、回転ずしなど、触れて中身がわからないまま選ぶことを運試しという遊びにしてしまう、「見えない人のユーモア」。

それは、「何かしてあげなければ」という緊張が生む「善意のバリア」で、不自然に固くなってしまった、見える人と見えない人の関係をほぐしてくれることがあるという。


見える人と同じ情報にアクセスできるようにと環境を整えることが、必ずしも善ではない。こちらの価値観を押し付けることなく、気軽に対話のできる社会は、たしかに居心地がよさそうだ。



まとめると、
見える人と見えない人の関係。今の社会では、それが情報ベースの関わりになりがち。必要な情報を与えサポートするような、福祉的と言われるものであり、緊張を伴ったり、どこかよそよそしくなりがち。
そんな「情報ベース」の関わりだけにしばられるのではなく、べつの関わりも追加していくっていうのはどうだろう、と伊藤さんは問いかける。
例えば、そっちの世界も面白いね、と好奇の目を向ける、差異を尊重する、友達や近所の人として関わるといったようなものだ。(それを「意味ベース」の関わり、としている。)
二つの関わりが補完的に作用することで、新しい創意に富んだ支援サービスが生まれるのでは、と伊藤さんは望んでいるようだ。


読み返してみて面白かったし、個人的に発見の多かった第1章では、空間把握について説明している。


あなたは、富士山をどうイメージしますか。
そして目の見えない人は富士山をどうイメージしていると思いますか。


ここがほんとに面白い。私があんまり話しちゃうともったいない。読みながら自分が変身していくのを楽しんでほしい。


というわけで、この先は読まずに、本を読もう?



でもあまりに面白いから、ちょっとネタバレしちゃうと、


見えないから、視点がない。視点がないからこそ、死角も生じず、裏表や正面といった面や空間のヒエラルキーがない。そして見える人は3次元の世界を2次元に置き換えてとらえているが、見えない人は3次元のまま理解している、というのである。なにそれすごい。


(ここはとくに面白いところなので具体例をあえて省く。どういうこと?ってなってほしい、そのまま本を買ってくれい。そして感想を語り合おう。)


ここですでに面白いのは、見えない人の空間のとらえ方を知る過程で、見える私の空間認識にも気づかされるということである。


たとえば、私たちは、世界を2次元でしか見ることができない、ということ。(ここで、え?そうなの?と思った人は、エドウィン・アボット・アボット フラットランド 多次元の冒険 を読んでみることをおすすめする。2次元の住民は世界を濃淡のある線として把握し、1次元の住民は声で互いの位置を把握する、という描写がある。3次元の住民は平面として世界を見るため、死角や不透明なものの内部は見ることができない。そして4次元の存在には、3次元のすべてを見ることができる。)


また、裏と表、正面と裏口、それら空間に善悪の価値を無意識のうちにつけていること。(例えば、あの人は裏がある、とか、裏口入学という言葉がある。)

他の章では、感覚・運動・言葉などのちがいをについて触れている。そこでも、目が使えることで、目からの情報に依存しがちだったり、目以外の器官を限定的にしか使いこなせなかったりする、「見える私」が浮き彫りにされている。


このように、ちがう体に変身することの効用は、空気のように見えなくなっている「自分のあたりまえ」を相対化できることにある。

当たり前を相対化、外から眺めることの意味はなんだろう、それでも私たちは生きてゆけるのに。


(ちなみに伊藤さんは生物オタクで、小さい時から「自分とは異なる体を持った存在を実感として感じてみたい」という変身願望があったそう。変態である。)


そんなことを考えていたら、ふと、宇宙からみた地球のことが思い浮かんだ。実際にみたことはないけど、宇宙飛行士がみた青い地球を。

外から見た地球を知らなくても、私たちは生きてゆける。

けれど、外から見たときにしか見せてくれない一面というのがあって、それは美しくて、面白い。


さらに面白いことには、衛星写真がない時代にも、人間は地球を外からみることができた。想像力をつかって。


  月から見た地球は、円かな、
  紫の光であった、
  深いにほひの。
  私は立つてゐた、海の渚に。
  地球こそは夜空に
  をさなかつた、生まれたばかりで。
  大きく、のぼつてゐた、地球は。
  その肩に空気が燃えた。
  雲が別れた。
  嘲鳴りを、わたしは、草木と
  火を噴く山の地動を聴いた。
  人の呼吸を。
  わたしは夢見てゐたのか、
  紫のその光を、
  わが東に。
  いや、すでに知つてゐたのだ。地球人が
  早くも神を求めてゐたのを、また創つてゐたのを。

  月から見た地球  北原白秋
    

この詩の冒頭しか知らなかったけど、お気に入り。

ああ、サクッと書こうと思ったのに。つい読み返してしまった。そしたら語りたいところがいっぱい出てくる。なんというスルメ本。


こんな感じで、私は大体いつも、過去のやり残したことのなかに生きている。今に生きたいと思うのだけど、もしかしたら好きでやってるのかもしれない。

みんなの周りにもいなかった?2学期始まってから夏休みの宿題本気出すやつ。


あとひとつ、著作権の関係で、著作権を持つ人の許可なしに本の表紙を撮影した写真を張り付けるのはだめらしい…。でもAmazonか楽天のリンクで張り付けるとさ、そこで購入することを勧めてるみたいじゃん。私にその意図がなくても、そうしやすい環境を作ってしまっていることにモヤモヤする。この記事をよんで、本読んでみたいって思ったかたは、できたら町の本屋さんで買ってほしいな。でも、「本屋で買わなきゃいけないなら、読まない。」ってなってしまうと元も子もないから、無理のない範囲で。こういう個人の努力でなんとかしないといけない状態って、持続可能じゃない。だから構造のほうにアプローチしていかないといけないんだけど、なんかいいアイディアないかしら。

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