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『兇天使』を読んだら異文化との衝突事故だった【読書感想文】
皆さまはどのようなきっかけで本を買うだろうか。著者のファンであるとか、あらすじが面白そうであるとか、タイトルに興味を引かれてであるとか、人それぞれ様々な理由があるものと思う。私の場合にありがちなのが、表紙買いだ。中身もろくすっぽ見ず、表紙の印象に心惹かれて、ひとめぼれ的に購入することがある。そうして出逢った本は、外見から予測した中身とおおよそ一致している場合もあれば、まったく想像もしていなかった方向性へ私を振り回してくることもある。
本書、野阿梓の『兇天使』は完全に後者であった。
あらすじすらまともに読んでいなかった私は、装丁の印象から、中世を舞台にしたキリスト教文学であろうと思っていた。遠藤周作とか、ジョン・ミルトンとか、そういった風情の文学世界が幕を開けると思い込み、頁を手繰った私の前に広がった物語は、実際には次のようなものだ。
物語は、幼年期の小さな天使が、ある熾天使を探すところからはじまる。彼は上帝の密命をたずさえて天界の積雲のなかを往き、やがてお目当ての熾天使「セラフィ」を禁所にて見出す。そのセラフィとはどのような存在であるか、冒頭で斯くのごとく描かれる。
美貌の尊厳を身にまとい、夜のように黒く巨大なモーターサイクルにうちまたがり、天界の秩序のなかを黒い稲妻さながらに暴走したかと思うと、あっという間に光りの彼方へ悠然と消えさる黄金の髪の海賊。
なにやら様子が変だ。何故天使がモーターサイクル(しかもホンダ製であるという)を持っているのだろう? しかもその後の描写を読むと、熾天使は革ジャンとレザーパンツのバイカーファッションである様子。
ひょっとして、この本はただのキリスト教文学じゃないのではなかろうか。実はひょっとしなくてもそうである。ハヤカワ文庫JAから出ている時点で察せそうなものだ。
さて、本書のあらましを確認しておくと、物語は2人の人物の視点を軸に、それぞれが交互に描かれていく。
1つ目の軸は、冒頭に登場した熾天使セラフィが、上帝の密命を受け、天界の霊的秩序を乱す罪人「悪竜ジラフ」を追跡する、というものである。セラフィの追跡行は時間と場所を超越し、たとえば新左翼運動の暴走に揺れる1968年のニューヨークや、ユリウス・カエサルがプトレマイオス朝を攻める紀元前48年のアレクサンドリア、シェイクスピアが新作悲劇の構想を練る1599年のロンドンへと、人類史の舞台を東奔西走し、歴史上の人物たちの運命に少なからぬ干渉を加えながら、悪竜の痕跡を探査していく。
2つ目の軸はところ変わって、シェイクスピアの『ハムレット』を舞台にした物語だ。主人公はホレイショーならぬ、フランス出身のホレイシォ・シャトオブリアン。アサッシンとしてのスキルを有するホレイシォは、のちに都市同盟の盟主となるリューベック市の市長ロス卿の命を受け、デンマーク王ハムレットを謀殺し、その息子たる同名のハムレット王子を傀儡とするため、デンマーク王城エルシノアに潜入する。しかし任務の遂行中、標的のハムレット王は、原作の通りホレイシォ以外の何者かによって暗殺されてしまう。ホレイシォは、ハムレット王子擁立のため、先王ハムレットの死の真相を暴くべく、王城内の秘密を探り始める。
……私は原作『ハムレット』に触れたことがないので、上のストーリーラインが原作とどの程度乖離しているのか分からない。ホレイシォとハムレット王子はかつて同じウィッテンバーグの大学に学んだ学友で、肉体関係を伴う恋人同士として描かれていたのだが、これは原作とは違うのだろうか……?
『兇天使』はジャンル横断的な大長編小説だが、本書をあえてなんらかのジャンルにカテゴライズするなら、耽美系BL小説だと言って差支えはないと思う。とにかく、隙あらば男と男がからみあう。男が男の美貌に頬を染め、言葉を失い、からだを重ねる。特に、流れるような金髪をした精悍な青年と、幼い美少年の組み合わせが多かったように思う。BLは私のささやかな読書遍歴にはまったくなかった異文化要素であり、表題の通り、ほとんど交通事故のようなものだった。
ただしネガティブなものではなく「そう来たか」という驚きとともに、楽しみながら、私は本書を読み終えることができた。BL要素はさておいても、その重厚長大な物語展開と、著者の博覧強記がにじみ出る美文に触れるのは読書体験として得難いものがあると思う。特に、ホレイシォがハムレット王暗殺の犯人をあばく、探偵小説さながらの鬼気迫る最終盤面は必見だ。熾天使の悪竜追跡と、戯作『ハムレット』が合流する瞬間も「そう来たか」の連続である。
本書は、はじめに想像した、静謐な川を小舟で下るが如くのキリスト教文学とはまったく様相を異にし、むしろ、読者をびっくりさせよう、面白がらせようという創意工夫にあふれたジェットコースターだ。振り落とされないように注意しながら、思う存分楽しんで読める一冊であると思う。
ぜひ皆さまも、熾天使セラフィとホレイシォの美貌に目を焼かれつつ、彼らの足跡にしがみついていってほしい。モーターサイクルホンダの黒い5リッターの背に乗って。