2024.8.25 佐倉市市制施行70周年記念 能登半島地震チャリティー能 舞囃子「高砂」、能「葵上」 ~初めて能を見に行ってみた~
「何も知識がなくて行ってもわからないよ」という知り合いの助言により、高砂と葵上のストーリーをユーチューブで調べ、ざっと内容を頭に入れ、いざ能鑑賞へ。
内容を頭に入れたとは言え、にわか仕込みではセリフや地謡の言葉の意味が分かる訳もなく、動作も想像通り派手な動きはほとんどなく、ストーリー展開もほぼ分からなかったのだが、それでも飽きることなく、全てが新鮮で興味深かった。
まず能の動きが面白い。
「上へ上へ」体を引き上げて、跳躍や足を上にあげることに価値観を見出すバレエなどとは異なって、農耕民族らしく腰を落として、膝を軽く曲げ、腰の位置がほとんど変わらないまま、移動するすり足。
そこに多少の手の動きと、ときたま「トン」という足踏みでほとんどの表現がなされる。
1960年代に流行った舞踏の動きも蟹股で低く曲げた腰などが象徴的だが、能のこのような動きがルーツになっているのがよく分かる。
これ以上削ることができないところまでそぎ落とされた必要最低限の動きで展開されていく物語。
そして音がまた興味深い。
笛、小鼓、大鼓、太鼓の4種類で奏でられるのだが、乱れることなく一定のテンポで同じリズムを刻み続ける。
しかも「ポン、ポン」という鼓の音はどこか懐かしく、心臓の音とも共鳴するようなスカンと突き抜けた簡潔な音。
そこに地謡が重なって、さらに心地よいハーモニーを織りなす。
能の謡の声は低くて力強い声であり、「渋い声」と言われるらしい。
西洋音楽の高く美しく透明感のある裏声とは正反対で、前に向かって声を出すというより体の中に響かせてうなるような張りのある声だ。
日本で生まれて日本で育ったのに、恥ずかしながらほとんどこの種の音楽を聴いたことがなかった。
それなのに静かに血が沸き立つような興奮を覚えたのはやはり日本人のDNAが刻まれているからなのか。
音域もそれほど広くないと思われたが、音がうねって渦巻いて、その中に自分の体も巻き込まれていくような、ずっとその渦の中で漂っていたいような気持ちになった。
普段刺激のあるものを見慣れてしまっているせいか、六条御息所と小聖の戦いも解説では「激しい」と書いてあったが、正直「これで終わり?」というあっけなさだった。
とは言え、目の前で人の体を通して発せられる音や動きの迫力は見る物を引きこむ力があり、日本人が本来持っているリズム感や大地とつながったような動きに心地よさを感じた。
これを信長、秀吉、家康も楽しんで見ていたのかと思うと、「シンプルであることの美しさ」「奥の深さ」「自由度の高さ」により、洗練された美しい芸術に見えてくる。
能が650年も愛されてきた理由が少し分かるような気がした。
もっとシンプルでいいんだ。