見出し画像

そろそろ私たちは「善い人間」の太鼓判を貰ってもいいと思う―――ブレグマン『希望の歴史 』を読んで

あなたは性善説と性悪説、どちらを信じているだろうか。
私は、日々両方の間で、揺れ動いている。
嫌味な人間に遭えば性悪説に傾いてクサクサし、優しい人間に逢えば性善説で世界は美しいと感動する。
それでも、正直、現実は「厳しい」と思っておきたい、というのが本音だ。その方が、無慈悲で冷たい現実の期待外れから心を守り、安心して生きられると、長いあいだ、そう思ってきた。

だが、この本は、現実が想像よりももっとずっと「善い」のだと証明できると言う。


「現実は厳しい」と思っておきたい

そうは言っても、日々、現実を生きている経験と実感では、最悪の想定をしておいたほうが、心のダメージは減る、としか思えない。

私はいま、有り難いことに衣食住を保ち、師走に向けて寒さが深まる季節に、部屋を暖めることができている。
それでも、「この世は善い人ばかりだ」と言われたら、いやいや、そんな甘いものではないだろうと思ってしまう。

自分が住んでいる国は、今のところ戦争には不参加だが、自殺やいじめや虐待や差別やパワハラやブラック企業のように、人道的、倫理的に「素晴らしい」とは思えない暗い事態は、自分の人生の中でも、何度か、その歪んだ顔を覗かせた。

ところが、ブレグマンは『希望の歴史』で、その考え方を、明確に間違っていると言ったのだ。

現在、現実主義者(リアリスト)という言葉は、冷笑的(シニカル)の同義語になっているようだ―――とりわけ、悲劇的な物の見方をする人にとっては。
しかし、実のところ、冷笑的な人は現実を見誤っている。

わたしたちは…互いに対して善良でありたいと心の底から思っているのだ。

だから、現実主義になろう。
勇気を持とう。
自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。
白日のもとで良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。

最初のうちあなたは、騙されやすく非常識な人、と見なされるかもしれない。
だが、覚えておこう。今日の非常識は明日の常識になり得るのだ。
さあ、新しい現実主義を始めよう。
今こそ、人間について新しい見方をする時だ。
ーーーブレグマン『希望の歴史』

「悪い想像」は「ノセボ効果」で必ず実現する

最近は、悪い人が多い。
信用すれば騙される。
嫌な奴らばかりで、うんざりだ。

そう思っていると、身の回りの現実が本当に「そう」なる。それを、ノセボ効果と言う。

これまで、名作文学や映画、有名で権威ある実験やベストセラーなどによって、「人間は悪になりやすい」というスローガンが声高に叫ばれ、そのイメージがアピールされてきた。

自分自身を含む人類に対して「ノセボ効果」を防ぐためには、古くて日に焼けたお馴染みのイメージポスターをすべて剥がして、「善い人間のほうが圧倒的に多い」という揺るぎない科学的な「事実」を受け入れて欲しいと、ブレグマンは言うのだ。

でも、「悪い人間が多いというのは、おとぎ話だ」と言われて、いったい誰がすぐに信じられるだろうか。 受け入れるのが難しい。だって、私の日常にも、うんざりする「おとぎ話」は現実として転がっている。
嫌なやつはいる。
それはいったいどう説明するんだ?

残念ながら、ブレグマンは悪人がゼロだと言うわけではない。何かをゼロだと主張するひとは、科学者ではないし、おそらく、信頼できる人間でもない。
それに、信じていいからといって、目を瞑っていいかどうかは、別なのだ。
自分の意見や考えを放り投げて、イイヒトにすっかり身を委ねるのは「依存」という別の苦境だろう。

問題は、悪人が多いと警戒して生きていると、実際に、ダークな世界に思えて、不幸な気分になりやすくなることだ。

人間の身体は不思議なもので、私は薬を飲んでいると信じ込むと、それがただの飴玉でも、薬と同じ変化が身体に現れる。
それが善い結果なら「プラセボ効果」と呼び、悪い結果なら「ノセボ効果」と呼ばれる。

プラセボ効果は、だれもが日常生活で実感したことがあるのではないだろうか。今日は調子がいいと思い込めれば、緊張する仕事や発表会でも、何とか乗り切れる。反対に、具合が悪そうだと思い込めば、重たい金縛りにあって、普段は落とさないグラスを落としさえする。

単純な「思い込み」がどれほど人間に影響しているか、私たちは自分の身体を通じて、しみじみと体験しているはずではないだろうか。だからこそ、「悪人ばかりだ」とうんざりして生きるよりも、「善人ばかりだ」と喜んで生きるほうが、思いもかけない「いい効果」が期待できる。しかも、事実、善人のほうが多いのなら、なおさらだ。

そういう人々が「いい人類」というプラセボ効果を持ち寄って、いい向こう三軒両隣になり、いい町になり、市になり、県になり、国になり、大陸になり、地球になる。

それこそが、ブレグマンの言う人類の「希望」なのだ。

「ほとんどの人は、本質的にかなり善良だ」

ブレグマンのこの「過激な考え」は、既に、あらゆる最先端の科学で証明されている事実だと言う。

だが、1話あたり3億円の製作費で作られる超大作海外ドラマほどのインパクトがなく、まだまだ大流行はしていないのが現状だろう。

それでも、この本は、驚きの連続だった。
なにせ、教科書に載っていた権威ある定説が、次々に、撤回済みであったり、誤解であったり、捏造だったと証明されていくのだ。

例えば、かの有名なリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』が、生物学の学説としては早々に覆されていたことを、ご存じだろうか。それも、ドーキンス自身が「人間は生来、利己的だ」という記述を二版以降、削除していたというのだ。
私は、恥ずかしながら全く知らなかった。
最新の生物学では最初に、生き物の賢い戦略は、生存競争よりも共存だと学ぶのだという。
それなのに、私は『利己的な遺伝子』という、刺激的なキャッチフレーズだけを、基本法則のように口ずさんでいたのだ。
それも、無理はない(と思いたい)。さして、専門に勉強をしているわけでもない一般人のイメージは、世相や映画の流行に影響を受けるものなのだから。

渡る世間は「万人の万人に対する闘争」か?

世代の雰囲気といえば、70年代は自己中心主義の時代だったそうだ。
高度経済成長の熱気の中、「万人の万人に対する闘争」というホッブズ流の思想が、大流行したという。

だが、残念ながら、実は私たちホモ・サピエンスは、好戦的な企業戦士には向いていない種族だと、ブレグマンは言う。

人間が家畜を飼うときには、穏やかで、集団で暮らしやすい血統を選定して、パピー(仔犬)のように人懐っこい種族を育てていく。
同じように、人間は、人間自身にも、その法則を適用した。
だって、そうだろう。動物の群れで、無意味に同胞に残虐で利己的なソシオパスが混ざっていたら、忖度せずに追放されるに決まっている。現代社会で、仲間への攻撃性がある秀才が、制度やルールにうまく嵌まって勝ち上がっていくのは、都市型定住生活だからこそ成立している、生物的には特殊な事例であるという。
狩猟採集時代のホモ・サピエンスは、平和を好む者同士で群れをつくり、穏やかな血統でパピー化し、獰猛な猿からかわいらしい猿へと、進化を遂げていった。

一方で、同時期に同程度かそれ以上の知能を獲得した猿人がいた。
ネアンデルタール人だ。彼らは、強く、賢かった。天才集団ネアンデルタール人は誰も彼もが優秀で豊富なアイデアを持っていたが、お互いに個人主義で、助け合わず、好戦的だった。その末路なのかどうかは不明だとしても、ネアンデルタール人は絶滅して、今では、博物館に飾られている。

他方で、凡庸で、模倣が大好きな集団ホモ・サピエンスは、ごくまれに生まれる優秀なメンバーが、ごくまれに画期的なアイデアを思いつくと、みんなでそれを全力で真似した。
彼らは、協力し合ってトラブルを解決し、群れで和やかに暮らすことを重んじて、氷河期を乗り切って、現代まで人間として生き延びている。


人懐っこさ・パピーらしさが、人間の本質だ。

その証拠に、眼で感情を表現し、顔を赤らめる猿は、他にいない。
これらは、集団で意思疎通をして、温和に暮らすために進化した特別な部位なのだそうだ。

人類は、農耕定住の歴史よりも長い時間、狩猟採集生活をしていた。
世界中、どこの狩猟採集民であっても、集団同士で交流しあって暮らし、和を尊び、個人をむやみに崇拝したりはしないそうだ。おそらく、それこそが、ホモ・パピーとして暮らしやすい生活スタイルであり、心地よく生きる知恵なのだろう。

それに比べると、現代の都市定住生活に蔓延している孤独は、一日に煙草を15本吸うのに匹敵するほど、身体に悪いという。

(とはいえ、若い読者のために念のために言うと、だからと言って、孤独は、自分を押し潰してまで誰かと一緒にいて解消すべきものではない。そのような見せかけの関係は、孤独と変わりがない。有益な孤独と、有害な孤独を、慎重に見極めなければならない。この本で言われるような有害な孤独とは、社会的孤立やネグレクト、いじめ、村八分など、自分一人ではどうしようもできない生命に関わる問題を抱えているときに、あらゆる関係性から見放され断絶されるような状態のことを言っている、と私は考えています。)

天才個人主義の利己的な遺伝子の種、ネアンデルタール人は滅んだ。
現代資本主義社会は、どちらかというと、ネアンデルタール風だと言えるだろう。

闘争や競争を煽り、個人をもてはやす風潮を正義とした現代社会は、平和なホモ・サピエンスには、生き苦しいに違いない。
都市生活に伴う社会問題の数々は、生来、大多数の人間の肌に合わない生活スタイルから来る、不和や歪みなのだとすれば、妙に納得できてしまう。

ネアンデルタール風生活は、優秀な天才肌のネアンデルタール人でさえ耐えられなかったのに、我らがかわいいホモ・サピエンスは、このまま突き進んで、本当に大丈夫なのだろうか。

ちなみに、それなら、野に帰れ、狩猟採集せよと言うのは短絡的だ。
性悪主義的であるし、幼稚でさえある。

答えはもっと、単純のはずだ。

いまの都市生活がホモ・サピエンスに合わないのだとしたら、ホモ・サピエンスに合う都市生活に変えれば良いのだ。

人間の本性がのんびり屋なら、20万年かけて蓄積してきた本性よりも、生活スタイルを変えるべきだろう。

都市だって、百年前の都市に比べれば、衛生インフラや公害病は、少しずつ善くなってきたはずだ。
善きホモ・サピエンスであれば、さらにより善く、未来を変えていくだろう。

人間はもともと、集団主義の協和的な遺伝子の種なのだ。
競争嫌い、闘争嫌い。
それは弱さでも、怠惰でも、恥でも何でもない。

もしも、それを弱さや恥だというのであれば、そういうスローガンを押し付けてきた思想や生活様式を、疑ったほうがいい。一体全体、あの競争心をいたずらに煽る冷酷なスローガンは、どのくらい長いあいだ続いてきたというのか。70年代のブームからならば、たかだか、50年の歴史ではないだろうか。

20万年前から、ただ単純に、人間という生き物には温和さが必要だった。
これに気付いて以来、進化について考えるときに、気が滅入ることは無くなった、とブレグマンは言うが、私も、大いに賛同する。
個人的に私は競争や炎上を煽る風潮が好きではない。他人の役に立ちたいし、他人とは楽しく仲良くやりたい。

それは、ホモ・サピエンスとして、何ら恥じることではなかったという事実を知ることは、心強さをもたらしてくれる。


「人間はたやすく悪人になる」という実験のほとんどが捏造だった

1950年代から1960年代にかけて、社会心理学者は何が普通の人々を怪物に変えるのかを突き止めるために詮索と探求と精査を始めた。この新種の科学者たちは、人間は誰でも恐ろしい行動をとり得ることを示す実験を、次々に考案した。私たちが置かれた状況にほんの少し手を加えるだけで、「ほら、出来上がり!」誰の心にもナチスが生まれるのだ。
ーーーブレグマン『希望の歴史』

ホモ・サピエンスは優しい。
それなのに、なぜ、捏造してまで、悪に転びやすいというスローガンを、こんなにもたくさん、流布しようと思ってしまったのだろうか。
そして、なぜ、「ああ、やっぱり」と、受け入れてしまったのだろうか。

その原因は、おそらく、戦争にあった。
第二次世界大戦では、アウシュビッツが、発生してしまったのだ。

人類はおそらく、その答えを求めていた。

文学は人間の本質に迫るものだが、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』でも、次男イワンが、同じく人類の永遠の謎の答えを求めようとする。

極悪人がいる。子供を笑って殺すような極悪人がいる。こんな世の中で、神は存在するのか?そんな人間がいるのに、人間が善だと考えたいなんて、正気なのか?と。

自分が悪の種族だとは思いたくない。

でも、善の種族だとも思えないことが、起きてしまった。

一体どう考えたらいいんだ????

その結果、「人間は悪に転びやすい」という実験の捏造が多発し、世界中の人間が、安心してそのイメージを受け取ったのだろう。

「人間が悪」なら仕方がないし、簡単でラク。

そう、楽なのだ。
もともと悪があって、それが多めに出てしまったというなら、とても分かりやすい。

だが、「分かりやすくて安心できる早い話」に飛びついた代償は、あまりにも、大きかったのではないだろうか。

そのせいで、正直者がバカを見て、騙されるほうが悪く、弱肉強食な、ネアンデルタール風スタイルが大流行してしまったのではないか。

能力主義、生産性向上、成果主義。
資本主義経済とあいまって、「24時間戦えますか」の時代の名残や呪縛は、まだまだ、末端社会人である2021年の私の生活にさえ、散見される。


これが本当に、幸福な未来につながる希望の道なのだろうか?

一人の社会人として、私は、この道を、後ろをよちよちと歩いてきている、日本の子供たちに歩かせたいのだろうか。

「人間は悪に転びやすいから仕方がない」ままでいいのか?

例えば「いじめ」はどうか。

この国で最悪の癌だろう。
人間は、いじめをする生き物だ。
それは果たして本当なのか?

善良なホモ・パピーは、嬉々としていじめに加わるのか?

あなたの周りは、あなたは、果たして、そうだったのだろうか?


「いじめ」は楽しいか?断固としてNOだろう。


あんなものは一秒でもはやく根絶したい人災だ。

それに、残念なことに、人間は悪に転びやすくない。

囚人役に電気ショックを流す心理実験に参加した人々は、看守の役にサディスティックになりきって、嬉々として電圧を上げたと喧伝された。
だが、隠匿された資料では、看守役の人々は、電圧を上げるのに激しく難色を示した。この実験がどれだけ他の人のためになるかと主催者サイドに説得されて、苦渋の決断で、電圧を上げた。そして、その実験に参加した後、自分が加圧した被験者の訃報が出てはいないかと、心配して毎日、新聞の訃報欄をチェックしたという。

元ナチス親衛隊のアイヒマンは、「悪の陳腐さ」の代名詞になった。
「百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない」。その淡々とした告白で、命令に従うだけの官僚が、おそるべき残虐な悪にやすやすと流されてしまったのだと、世界人類は長いあいだ、そう思わされてきた。
だが、アイヒマンは現在、押しも押されぬ「狂信者」であったと考えられているという。
狂信者は、どう見積もっても、普通の人の普通の心理状態では、ない。
自分たちが、歴史の正義の側にいると確信し、曖昧な命令を積極的に想像で補い、ヒトラーの思考に近づこうと忖度に忖度を重ねて、何年にも渡ってプロパガンダに熱狂し、欺かれ、強化され、洗脳され、操作された、狂信者。
それは、道を踏み外しもしよう。
だが、それは、決して、陳腐で、ありきたりな、人間のさがなどではない。
念入りに作り込まれた狂信者は、人間のもとからある本質ではなく、人間のゆがめられた変貌の果ての、一つのありさまである。

そんなもんが、ホモ・サピエンスの本質であって、たまるか!である。

「いじめ」は人間の本質的な悪癖なんかじゃない

戦争において、悪は陳腐ではなかった。それは、何年も考え抜かれた洗脳という努力の結果であった。

それでは、陳腐な悪の代表格。いじめはどうだろうか。
いじめは当たり前で、陳腐な、人間のさがなのだろうか。

いじめはしばしば、人間の本質的な癖と見なされ、子供ならだれでもすると考えられている。
それは間違いだ、と、いじめが蔓延する場所を広範に調査してきた社会学者たちは言う。
彼らはそれらの場所を「トータル・インスティテューション(全制的施設)」と呼ぶ。…
・全員が同じ場所に住み、ただ一つの権威の支配下にある。
・すべての活動が共同で行われ、全員が同じタスクに取り組む。
・活動のスケジュールは、多くの場合、一時間ごとに厳格に決められている。
・権威者に課される、明確で形式張ったルールのシステムがある。
ーーーブレグマン『希望の歴史』

この施設の運営方式に、見覚えのある人は多いだろう。
この施設の運営方式だと、全部を制御する施設だと、必ず、いじめが発生するのだ。
少なくとも私は、大いに納得した。
これが最先端の科学者たちが証明してくれたメカニズム。

それでも、人間に根付いた「悪」だから仕方がないと諦めながら、古い手法で全制御的施設の運営を続けてしまう。人間悪のスローガンは、それほど根深く、人間の息を詰まらせ、苦しくさせている。

「いじめ」はなくせるらしい、それも簡単に。


ちなみに、ノルウェーの刑務所は非相補的(相補的=因果応報的ではなく、危害に親切を返す方式のこと)施設に切り替えて大成功を収めて、再犯率が世界で最も低くなったのだそうだ。
ノルウェーの刑務所からは、いじめが消えた。
ノルウェーの刑務所の担当者は、簡単です、と語ったと言う。受刑者を「集団の一部」ではなく「人間」として扱い、「施設の運用方法」を変えただけ。それで、いじめが消えた。
全制的施設ナンバーワンの「刑務所」でさえ、「いじめ」はなくなる。

それでも・・・、私たちの学校には会社には、人手もお金もないから、このまま、蔓延したままで、進んでいく道を選ぶのかもしれない。

いや、人間は善だと勇気を出して信じるなら。

どうせ、無理でしょう。
そうやって、見限る態度こそ、人間を悪だと信じ続けるという弱さの現れ。

実際に、『希望の歴史』のような本が出たのだ。

一般人の、さして詳しくない、私でさえ、手に取って、知ることができたのだ。

これからも、こういう意見を主張する本が、続々と出るだろう。

全制的施設?あったね、そんなものも。

そう言って、未来の私たちは笑う。

第一、少しでも違う道のほうがいいと思い、何かをする人が増えたらいいと、心から願って、私はいま「『希望の歴史』の感想文を書くことをする」と決めて、実行している。

そういう小さな実行が、大きなうねりになって、私たちの国の全制的施設を、いじめ知らずのユートピアに変えないと、誰が断言できるだろうか。

だって、私たちは、本質的に、善人なのだ。
財布が落ちていれば届けるし、子供が迷子なら手を引くし、自己責任という呪詛に雁字搦めになってしまうほどの、善人なのだ。

そろそろ、「善人らしく」暮らしたい。


2001年、911の日、崩壊するビルで人々は、道を譲りあったそうだ。
大災害が起きたときに、ニュースはどさくさの強盗を大々的に華々しく報じるが、それよりも助け合い、譲り合い、守りあう方が圧倒的に多いそうだ。
不時着した飛行機から降りるとき、弱者を踏みつけにする人よりも、順番を守る人ばかりだそうだ。

いま、自分の身の回りを見回しても、いざ、災害が起きたときに、私の隣人たちも、きっとそのように行動するだろうと、私は信じられる。
だって、落とした財布も、鍵も何度も返ってきたのだ。(その節はありがとうございました)

人生で私は、そう信じられる場所に、所属していなかったことも、あった。
でも、そういうところから離れてみれば、そういうところの只中でさえ、やはり、優しい人々は居た。

嫌な人間のほうが記憶に焼け残る印象が強いだけで、圧倒的多数は、優しい人々だったと思う。それは本当に、有り難いことだと思う。

だから、人間はそろそろ、本質的に善であるという太鼓判を押されても、いいのではないか。

人間が本性を丸出しにして、生きられたらいい。

道を譲りあい、子供や老人を先に行かせて、顔を赤らめあい、目線で同じものを追い掛け合って喜ぶホモ・パピーとして、鼻歌を歌いながら、仕事をして、生計を立てていける日がやってくればいい。

その日のために、私は、まずは私から、勇気を出して、信念を変えようと考えている。

失敗もするし、嫌味も言うし、ダメなやつではあるかもしれない。
それでも、私という人間の本質は、間違いなく、善だ。



【参考】『Humankind 希望の歴史 上・下』ルトガー・ブレグマン

#読書の秋2021
#Humankind希望の歴史

いいなと思ったら応援しよう!

守野麦
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

この記事が参加している募集

この記事が受賞したコンテスト