【小短編】桜の木の蕾の下のYさんの喜ばしい異動
桜の蕾が膨らむ三月、オフィスの会議室エリアでは、会社員への異動辞令の通達面談が、分刻みのスケジュールで行われていた。
「これが辞令です。」
花形部の部長が、笑顔で一枚の紙きれを手渡した。
社員Yは受け取って目を走らせる。
「地味部ですか。」
Yは抑揚のない声で言った。
「うん、地味部は、歴史のある部署だから。そういう部署に行くと、経験が増やせて、ラッキーだと思うよ。」
「そうなんですか。今まで、やってきたこととは全然違う業務なので、ちょっと驚いているのですが。」
Yは目線を部長の顔に戻した。
部長はにこやかに続けた。
「まあ、組織は、個人の思い通りにならないものだから。どんな場所の仕事も、必ず意義はあるからね。」
「はい。基本的に、どの仕事も経験とチャレンジだと思っています。」
「うんうん、Yさんならそう言ってくれると思ったよ。じゃあ、春から、頑張ってね。期待しているよ。」
「はい。失礼します。」
部長のよく通る声は、個別ブースの衝立をゆうに越えて周囲に漏れ聞こえており、フロアでは落とされた小石のさざ波が揺れていた。
「まじか。花形から地味ってありうるの。」
「異例中の異例でしょう。」
そのさざ波は、他のブースからも大小さまざま、会議室から離れるほど高い波しぶきになって、机の島々に押し寄せていく。
その波に濡れないように、Yは足早にエレベータに乗り込むと、閉じるボタンを静かに三度押し、扉をぴったりと閉じた。
六時間ぶりに外に出ると、街は昼間の賑わいを見せていた。
喫煙所や自販機前の人混みを避けて、オフィスビルの裏手に回り込む。
そこに、路地裏とビル裏に囲まれた、古くて小さな児童公園があった。
立体駐車場やビルの角度が、奇跡のように少しずつずれあって、この公園が暗い日陰に沈むことはなかった。
今日も、砂場から半分顔を出した鯨や河馬が、うららかに陽に当たっている。
公園のベンチには、年老いた柴犬を連れた老人がいた。
老人は、Yに気が付いて、本から目を上げると、微笑んだ。
「あら、こんにちは。」
老柴は、スフィンクスのポーズのまま光合成をして、微動だにしない。
「聴いてください、やりましたよ。異動です。左遷です。」
「それは良かったですね。」
老人は、拍手を送った。
「はい。あなたのアドバイスのお陰です。これで、ようやく、不夜城の寝ずの番を脱出して、人並みの生活を送ることができます。」
老人は腰をずらすと、座面を叩いて、Yに席を譲った。
Yは興奮した面持ちで、ベンチに腰を下ろす。
「いやいや、私など、何ほどのこともしていませんよ。あなたが、ラッキーだっただけですよ。もし、次の部署でも、生きづらいようなら、不夜城を辞めればいいんです。もし、普通に働いて、働けるようなら、そのままお城のスタッフになればいい。それだけです。
一生懸命も、頑張りも、奉仕精神も、自己犠牲も、大切です。尊いです。
けれど、搾取は別問題です。
この一線だけは、人間、死守しなければ、いけませんから。」
老人の目は憎悪に燃えていた。Yは、ぞっとして、黙り込んだ。
薄々、勘づいていたものの、牧歌的な公園に鎮座する、柔和な老人の中に巣食う闇は、相当に深いようだった
Yは、改めて老人の方に体を向けると、頭を下げる。
「あの、色々と、ありがとうございました。本当に、感謝しているんです。あなたと話せなかったら、私はまだ、勝ち負けにこだわっていました。平均や他人の表面と比べても、何の意味もない。自分がいま、幸福かどうか、大切なのは、それだけなのに。」
老人は能面のように強張った無表情のまま、口角だけを上げて笑いを作っていた。
「いつだって、大切なことほど、見失いやすいですからね。」
老人の表情を直視できず、正面を向いていたYの顔の前で、老人は、三本の指を曲げ伸ばしして見せた。
「知っていますか。人間の幸福は、愛、交友、仕事の三本柱だって、心理学者のアドラーが言ったそうですよ。ベストセラー本の、受け売りですけれど。だから、仕事なんて、人生の鼎のたった一本なんですよ。その、たった一本に、殺されてしまっては、つまんないじゃないですか、人生。」
Yも真似して、自分の三本指を曲げ伸ばしして、見つめた。
「愛。愛ね。何で今まで、愛を、安っぽくて気恥ずかしいと思っていたのか、今は、とても不思議ですよ。連れ合いに、給料が安くなるなら、生活を小さくすればいいって、言われたんですよ。それで、なんか、もう、もういいかあってなったんです。」
「いい、お連れ合いですね。いい、伴侶だ。やっぱり、愛は、さすが、一本柱なだけ、ありますよ。持っている人間は、とても、強い。
やっぱり、あなたは、ラッキーですよ。」
Yは、何度か躊躇い、ついに、意を決して、老人に尋ねた。
「あの、あなたは、なぜ、この公園に居るんですか。なんで、あの・・・不夜城を、見ているんですか。」
緊張して尋ねながら、Yは思い出そうとした。
老人と初めて会ったのがいつなのか。
こんなに踏み込んだ話を始めたのは、いつだったのか。
だが、疲弊して、無我夢中だった頃の記憶は、ぼんやりと透明な膜に包まれていて、今となっては、うまく思い出せなかった。
老人は、微笑んだ。
「いえね、あの城で、私の子供が過労自殺したんですよ。それで、それ以来、ここに座って、あの頃の、うちの子と、同じような顔をしている子には、声を掛けるように、している、だけなんです。」
Yは放心して、ただ、黙って、老人を見つめた。
老人は、正面の中空を見つめていた。
「それだけなんですよ、私は。」
眼の前には、痩せた桜が一本、円形の花壇に納まっている。
ひょろひょろとしていたが、それでも枝先には蕾が、樹肌と同じ色のまま、しっかりと膨らみ始めている。蕾は固く、桜色はまだ、どこにも見えない。
「もうすぐ、桜が咲きますね。」
Yがぽつりと言った。
老人も目を細めて桜を眺めた。
「ああ、本当だ。そろそろですねえ。」
Yは、勇気を出して、言い募った。
「ここ、何年も、桜をまともに見ていないから、今年は、伴侶と花見を、します。私は、絶対。」
「ああ、いいですねえ。それはいい。それが、本当の、生活です。」
老人は、Yの顔を真っすぐに見て、微笑んだ。
(終)