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「自由に生きるための能力を育てる」(遊びと対話能力)

私は、「子どもの遊びについて考える」ことは、「自由について考える」ことと密接に繋がっているのではないかと考えています。
そして、「自由について考える」ことは、「人間について」、そして「人間らしさとは何か」ということを考えることと繋がっています。「自由」という概念を抜きにして、「遊び」とか「人間」について語ることは出来ないからです。

自然には「自然の摂理」があります。人間以外の生き物は、全てその「自然の摂理」に従って生きています。私たちは、「野生の生き物たちはみな自由に生きている」と思い込んでいますが、それは誤解です。野生の生き物たちは、「人間の決めたルール」には無関係に生きています。だからそれが「人間の決めたルール」に束縛されている人間には、「自由に生きている」ように見えるだけのことです。
でも、野生の生き物たちは「人間の決めたルール」からは自由でも、「本能というルール」には束縛されているのです。

人間は「人間が決めたルール」に対しては不自由ですが、でも、「本能に束縛されることなく自分たちのルールを決めることが出来る」という点では自由です。まただから自然を破壊してしまうのですけど。
人間以外の生き物には「私」という意識がありません。自我がないのです。そのため単純に、欲望や、反射や、反応に従って生きています。そして、「私」という意識もないので「不自由」も感じません。人間は、「私」という意識があるから「不自由」を感じるのです。

そして、「不自由」を感じる能力があるからこそ、「自由」を求め、自由に生きることも出来るのです。幼い子どもたちも野生の動物たちと似たような「無意識に支配された世界」を生きています。彼らにもまだ「私」がありません。感覚主体としての「自分」(主観的な自分)はありますが、他の人との関係性の中での「私」(客観的な自分)がないのです。

そのため、命の欲求、成長の欲求、動物としての欲求に従って生きています。それが大人には「自由」に見えるのですが、実際には幼い子どもたちは「自由」ではありません。ただ「命の働き」に流されているだけで、自分で「自分の行動」を選んでいるわけではないからです。
空に舞う桜の花びらがいくら「自由」に見えても、桜の花びらは自由に舞っているわけではなく、ただ風に流されているだけですです。それと同じです。

風に逆らって動く能力を得て、始めて本当の意味での自由を手に入れることが出来るのです。それはつまり「想い通りにはならないこと」との出会いを通して「自由」に対する意識が目覚め、「自由に生きる能力」が育っていくのです。「反抗期」にはそのような意味もあるのだと思います。

その「不自由」を乗り越えるために必要になるのが「対話する能力」です。グライダーは動力を持っていません。でも、花びらと違って風に流されるだけではありません。操縦者が風と対話することで、風に流されることなく自由に飛ぶことが出来ます。誰でも最初はコマを回せません。でも、コマとの対話を繰り返すことで、コマを自由に回すことが出来るようになります。

でも、ベイブレードのように機械仕掛けで回ってしまうコマの場合は、「操作方法」を覚えれば、ベイブレードと対話などしなくても回せてしまいます。便利な機械や道具の普及によって、私たちは感覚を働かせて対話などしなくても生活をすることが出来るようになりました。それは「遊び」においても同じです。ゲームやオモチャなどで一人で遊ぶ遊びでは、不自由を乗り越えるための対話は必要がありません。その結果、便利なオモチャに囲まれた子どもたちは、「対話」という「自由に生きるために必要な能力」を育てることが困難になってしまったのです。

そのような状態の子は、みんなと群れて遊ぶのも苦手です。「群れ遊び」では自分の思い通りに行動出来ません。子ども達は基本的に、みんながみんな「自分」を主張するからです。
それは非常に「不自由」な状態です。でも、みんなと対話することで、その「不自由」を「自由」に変えることが出来るのです。

問題は、簡単で便利な遊びが普及した結果、その「対話」が苦手な子が増えてきてしまったことです。


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