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「自然の働きと文明論」(粘液質・憂鬱質的価値観を大切にしよう)
私は40くらいまで鎌倉の材木座という海に近いところで育ちました。裏は直で山で、庭からそのまま山に登れました。庭には沢ガニがウロウロしていて、夜にはタヌキの家族がやって来ていました。
今住んでいる茅ヶ崎も、サザンなどの湘南サウンドで海のイメージが強いですが、「湘南」と言えるのは一号線から海側だけで、私が住んでいる山側はただの住宅街です。ちょっと行けば畑や田んぼがいっぱいあります。
なので、時々海が見たくて自転車で海まで行って海沿いを三浦や小田原の方に向かって走っています。年に数回、三崎漁港や早川漁港まで行って美味しいものを食べてきます。
そんな風に海沿いを海を見ながら走っていると毎回、海岸やその周辺の様子が違うのです。昔遊んでいた磯が消えていたり、広かった砂浜が狭くなったり、子どもの頃にはいっぱいいた海の生き物や貝などが激減しています。
海岸に打ち上がっているものも違います。ウミガメの死骸が打ち上がっていたこともありました。
風が強い日や台風などの後は巨木が打ち上がっていることもあります。また海岸沿いの遊歩道は砂だらけで、部分的にですが完全に埋まってしまうこともあります。
数年前の大きな台風の後には、遊歩道自体が崩れて通れなくなってしまっているところもありました。
歩いていると、道が途中から砂の中に消えている所もあります。
そのような、大風や台風の被害に遭った現場を見ると「あ、壊れている」と思うのですが、あるとき、「これは自然が元に戻しただけなんだ」ということに気付いたのです。
つまり、人間が「作った」という時には自然にしてみたら「壊された」ということで、人間が(自然によって)「壊された」という時には自然にしてみたら「元に戻した」だけのことに過ぎないということです。
「人間が作る人工的なもの」は基本的に全て「不自然なもの」なので、人間が管理しなければ、すぐに自然に還っていくのです。
このように、自然には常に恒常性を維持しようとする働きがあります。そして、その恒常性は循環によって支えられています。それは地球の働きにおいても、命の働きに置いても同じです。
だから、四季は循環し、寒い冬が来ても、その後にはちゃんと春が来るのです。
風邪を引いて熱を出しても、しばらくすれば薬など飲まなくても熱は下がるのです。
年老いて死ぬ人がいれば、また新しく産まれる命もあります。
動脈から出ていった血液はちゃんと静脈から帰ってきます。
でも、基本的に人工物は循環しません。人間が作ったものは人間によるメンテナンスによってその状態が維持されていますが、それでも、自然の働きにはかなわなくてやがてゴミになります。
リサイクルしたとしても、ゴミになるまでの時間を引き延ばしているだけで、結局はゴミになります。
ですから、自然から搾取した物で自然に還らないものを作ることで成り立っている社会はやがて滅びます。地球の何十億年というスケールから見たらあっという間に滅びます。
と、ここまで環境問題のことを書いているように見えますが、別に私は環境問題について書きたいわけではありません。
じゃあどうしてこんな話を書いているのかというと、この「自然の循環システムを支えている働き」と「気質の働き」が非常によく似ているからからです。
海の水は太陽の胆汁的な熱の働きによって水蒸気となって空中に上がっていきます。
そして、風の多血的な働きによって世界中に拡散していきます。風は自由ですから、どこにでも入り込みます。
そして、高い山にぶつかったり、寒い空気とぶつかったりした時には、微粒子を核として水蒸気が固まり始め、霧や雨になり、重くなり、地上に落ちてきます。
これが自然の憂鬱質的な働きです。
地上に落ちた水は、大地にしみこんだり、地表を流れたりして、やがて「川」になり、多くの命の働きを支えながら、滔々と流れ、やがて海に出ます。
これが粘液質的な働きです。
そして、海に出たらまたこの循環が繰り返されます。
秋になると木々の葉は大地に戻りまた土に還ります。
死んでいく生き物もまた土に還ります。
これが自然の憂鬱質的な状態です。
秋になると、春に起きたことと逆の現象が起きるのです。
でも春になるとその大地のエネルギーを得て、また新しい命が産まれます。色が消えた世界に色が生まれます。
春になると、秋に起きたことと逆の現象が起きるのです。
これが自然の多血質的な状態です。
夏には、木々も生き物たちも、命のエネルギーがからだの中から外へと流れ出します。そして、活発に活動します。これが自然の胆汁質的な状態です。
でも、冬になると、命のエネルギーは外側に向かわずに、からだの中で春の準備をするために活発に働くようになります。
これが自然の粘液質的な働きです。
人間においても、いつまでもみんなが幸せに生きるためには、四つの気質が、それぞれの役割をお互いに尊重しあいなが助け合う必要があるのです。
どの気質が欠けても、その影響は他の全ての気質の存在を危うくしてしまうからです。
「胆汁質が偉い」とか「憂鬱質はダメだ」ということはないのです。全ての気質が対等に大切なんです。
問題は、経済(お金)のことにしか関心がない現代社会では、胆汁質や多血質の価値観ばかりが優先されていることです。そして、胆汁質や多血質的な価値観ばかりが大切にされている社会は、循環が途絶えてしまうのでやがて崩壊してしまう可能性が高いのです。
秋や冬を受け入れず、活動的な夏の状態だけを維持し続けようとすれば、どんどん気温は上昇し続け、やがて人が住めなくなってしまうのです。人間にとってだけ都合がよい人工物しか存在していない世界では、「自然物である人のからだ」は循環のつながりから切り離され病んでしまうのです。
私たちが生き延びるためには、前に進むことばかりに夢中になることを止め、立ち止まり、「過程を楽しむ」「無駄を楽しむ」という価値観を取り戻す必要があるのです。
それは粘液質的価値観、憂鬱質的価値観を大切にするということでもあります。
今、インフルエンザやコロナや様々な病気が流行しているので、政治家も医者もマスコミも「不要不急の活動は自粛してください」などと言っていますが、困ったことに、人間にとっての「人間らしさを守り育てる行為」の多くが「不要不急」「無駄なこと」に振り分けられてしまっています。
そしてそれが、胆汁質が強い人や、胆汁質が強い社会の価値観なんです。
胆汁質の人にとっては「心の問題」は大した問題ではないのです。ちなみにトランプさんも胆汁質が強いです。トランプさんだけではありません。政治家は全般に胆汁質が強いです。
一時は歌を歌うことも、顔を見せ顔を寄せて話し合うことも、子ども達が友達と手をつなぐことも禁止されましたが、でも、会いたいときに会い、手をつなぎたいときに手をつなぐのは、決して不要不急の行為ではないのです。