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ボランティア日本語教室という場

ご主人の仕事の関係で好む好まざるに拘わらず日本に住むことになる在日外国人生活者の奥さんや子供。これらの人たちの日本語支援でもどかしさを感じるのはこうした人たちの言語支援が公的に何もなされていない点だ。このような人たちが窮して訪ねてくるのが地域で行われるボランティアの日本語教室になる。

ボランティアと日本語教師の体温差

ボランティアの中には日本語学校での教師経験を持つものから、全くの未経験者まで様々な人々が善意で集まる。また、日本語教室に訪れる学習者については生活者、子供から留学生、ビジネスマンまでとあらゆるバックグランウンドをもっている。ボランティア教室とは言っても、地域によってもやり方が異なるし、一人一人がそれぞれに試行錯誤しながら学習者と一緒に学ぶ形になる。
私がかつて日本語学校で教えている頃、何人かの日本語教師や教務主任が「ボランティアの日本語教室なんて実績にも何にもならない」というような話を耳にしたことがある。私は一応どちらも経験しているが、彼らは恐らくボランティアをやったことがない人たちだろうと思った。日本語を教えることでお金を稼ぐからそちらの方が上、といったような日本人特有の屈折したプロ意識も関係しているかもしれない。しかし、実際にはボランティアの日本語講師の方が数倍の柔軟性を求められる。唯一異なるのは、20人近い大クラスを教室で教えるという経験だろうか。
学習者はその人の置かれている環境や事情、立場によって、教科書やドリルを中心とした積み上げ式で教えるような時間的にも経済的にも余裕がないことが多い。皮肉なことに、日本語学校の日本語教師をやっている人がボランティアをやって思考停止する人は案外多い。学校や養成講座でやったやり方しか知らないし、できないという。そのやり方しか知らないから、学習者にその教え方を強いる。結果、先生を変えて欲しいという学習者が出る。(来なくなるケースもある)無報酬ではあるが、ボランティアはかなりストライクゾーンが広く、骨が折れる。

学習者のウォンツと気持ち

ボランティア日本語教室に来る学習者の多くは主婦や技能実習生、留学生が多い。私の経験では、主婦といっても彼女たちは自分の国ではきちんと仕事を持っており、来日したが故に主婦をやらざるを得ないケースもある。自国に戻れば弁護士、医者、エンジニアなどそうそうたる資格と仕事をしていたりする。それだけに、教える側を見る目も直感的で厳しい。学習意欲は日本語学校の生徒より遙かに高いし、殆どの方は自国の大学を卒業ないしは修士資格まで有している。留学生においてはJLPT N2 または N1を持っている。教える側もそうした背景を知り、相手とのラポール付けをしっかりと行わないと関係がぎくしゃくすることがある。言語以前に人間関係が最初に来るのがボランティア日本語教室なのだ。
言語が分からないだけであって、人間的にも文化的にも相手から一定水準を暗に求められていることも多い。更に、ボランティアでは学習者の必要としていることをできるだけ優先することが求められる。ここが進学目的の日本語学校の生徒と大きく異なるところだ。相手が生活者であるというのは、そういうことなのだ。

日本語を使う場

JLPT N1に合格した人たちもボランティア日本語教室をよく利用する。誰もが異口同音に言うことは「話せるようになりたい」「使えるようになりたい」「日本人と話したい」などだ。この問題は日本語だけではなく、どの言語学習者でも同様なことが言えると思う。日本にいるのに、たくさん勉強して覚えたのに使う場所もチャンスもない。話したいけど話せない。こうなると、言語力の問題ではない。機会や場の問題になってくる。言語ではなく言葉を使いたい、コミュニケーションをしたいのだ。人として当たり前のことがしたいのに、その場がない。日本という場所にいて、日本語を使える場がないのだ。恐らく、彼ら彼女らは安心して間違えられる場所と、間違ったときにちょっと教えてくれる場所も欲しいかもしれない。突き詰めて言えば、異国だけどちょっと安心できて自分を出せる場ということになるだろうか。これは個人的な希望になってしまうが、ボランティア日本語教室はそれがかなえられる場であり、ちょっとしたHomeであれたらいいんじゃないかと思う。

結局、日本語を教えるというのは何なのか

これはしばしば自分にも問いかけることだが、「日本語教育」だの「日本語教師」だの言うが、これらが現在のところ、とても限定的な人たちを対象にしているということなのだ。進学、留学を目的とした人たちであって、他は対象外に等しい扱いなのは残念なことだと思う。これらは入国審査やビザなど様々な問題が関わってくるのでどうすればいいかは一言では言えないことではある。しかし、言語生活(コミュニケーション)における安心感をもてる場やコミュニティの創出は今後必須になると思う。これはボランティアの範囲を超えてしまった話なのだが、現状はボランティアの日本語教室がそれに一番近い役割を果たしていると思う。もう一つ、「日本語教育」なるものが一人歩きしてもっとも裾野の広い一般的な在日外国人生活者に及ばないところが最大の問題点だと思っている。それは、この国で働く全ての外国人労働者とその家族の問題でもある。

経験することで見えるもの

ボランティア日本語教室はたいていの都市や市町村にある。これを仕事というのは違うかもしれないが、海外の人々と共に時間を過ごし、学び会える場として捉えてみたらどうだろうか。「日本語を教える」という固定観念のような幻想に縛られるのではなく、「共に暮らす」という視点を経験できるのは貴重だと思う。何が欠けているのかというと、行き着くところは「共にある」ということなのだと思う。このコロナ禍の状況下では、すぐには難しいだろうが、この騒動が一段落したあとで、関心のある方はいちどご自身の地域のボランティア日本語教室を見学して経験してみて欲しい。思ってもみなかった新しい経験があるかもしれない。

おしまいに

結論らしきものには至らなかったが、地域に暮らす在日外国人との接点は非常に少ないようだ。仮に日本人側が求めていたとしても、肝心な場所やチャンスがないし、どうすればよいのかも分からないかもしれない。そんな時、ボランティアの日本語教室の門をたたいてみて欲しい。また、そんなヒマはないかもしれないが、現役の日本語教師もボランティアの日本語教室というものは日本語学校とは違った意味で新しい経験をもたらしてくれると思う。まず、人と会うことから始める。言葉を交わすことから始める。私はそこに日本語教育ではない日本語共育があると思う。

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