外国語としての日本語を念頭に日本語学習支援をして随分になる。母語話者が母語を主観的に見ようとしても気付かないことばかりだ。新しい気付きや発見は、いつも学習者達の疑問や質問の中にある。学習者のわからない、知りたいにはきちんとした根拠がある。それを真摯に汲み上げ取り組む必要がある。
教育といえば、子供や学生をイメージする。でも、本当にそうだろうか。本当にそれが必要なのは、私達自身なのではないか。自身が学びも経験もせずに、善かれと思い込んで子供や学生に新しいアプローチを適用するのでいいのか。教育を自身の学びに取り込む大人発の学習機会を増やすべきだと思う。
文法や訳を考えるのではなく、意味を考える。本質を問わないと答えは出てこない。表現や言葉が使われる状況、相手、感情などの背景によって意味は変わる。それらを含めて意味の在り処を探り、気付く瞬間的な作業が求められる。形式ではなく表現したい内容の真意を見抜くことが肝である。
言語もアプリもみんな道具。道具は目的や辿り着く場所に合わせて見合った道具を選ぶ。道具を目的にしない。道具を中心に考えてはダメ。得意な道具を使いたいから本質を曲げるのは言語道断。でもそういう人は案外多い。昔、仕事でそれを曲げちゃった奴がここにいる。大いなる反省と自戒を込めて。
道具に溺れて本質を見失う。新卒や新しいスキルを覚えたての人にありがちな勘違い。私もよくやって失敗した。技にばかり注意がいって、肝心な内容や本質を見失う。大事なのはいきなり道具を使わない。問題の本質が何かに焦点を合わせる事。道具を通して問題を考えると、まともな結果を導けなくなる。
同じ業態や仕事の中だけで生きているとその枠の中でしか物事が見えなくなる。教師も同様だ。教える側だけだと見えなくなる。どうするか。教わる立場になること。全く別の世界を見る、知る、経験する。立場を変えることは自身を外に置くことになる。見える景色は自ずと変わる。枠から出てみる。