「正しい」と「正確だ」の違いから
今回は、「正しい」と「正確だ」という言葉の違いから、主に言語習得について考える。
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まず、次の一文を見られたい。
ここでは、鉄道の発着時刻に関して、ドイツはイタリアと比べると正確であるが、日本と比べると不正確であることが述べられており、上の一文からこの内容を理解することは、それほど難しくないと思われる。
では仮に、小学生でもこの内容を理解できるようにするためには、どうすれば良いだろうか。上の一文をそのまま読ませたり聞かせたりすれば、少し「わかりにくい」説明になると思われる。
もちろん、一口に小学生と言っても年齢や学力には大きな差があるが、全ての小学生を対象とするならば、次のように説明するのではないだろうか。
このように、全ての小学生が理解できるように、前提とされる知識を補ったり難しい言葉を簡単な言葉に置き換えたりする必要があると思われる。
例えば、「日本の鉄道は極めて正確だが、ドイツの鉄道も正確だ」という前提とされる知識を補ったり、「正確だ」という言葉をより簡単な「正しい」という言葉に置き換えたりしているのがそれにあたる。
これは、小学生への説明に限った話ではない。教員から生徒(学生)への説明、上司から部下への説明、経験者から未経験者への説明など、いずれの説明においても相手の知識や語彙力に合った説明をする必要がある。
つまり、説明する人を「話し手」、説明される人を「聞き手」と呼ぶことにすると、「話し手」は「聞き手」の知識や語彙力に合った説明をする必要があると言える。
言い換えれば、「話し手」は「聞き手」の「知らないこと」を「聞き手」の「知っている言葉」で説明する必要がある。そして、そのような説明は一般的に「わかりやすい」説明とされる。
教育を例に考えると、学校の「話し手」(教員)の説明からは学習内容を理解できない生徒が塾や予備校に通うのは、より「わかりやすい」説明をする「話し手」(塾や予備校の講師)を求めているためと思われる。
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では、「話し手」は常に「わかりやすい」説明をすべきなのだろうか。
この問いに対しては、次の2つの理由から、「話し手」は常に「わかりやすい」説明をすべきなわけではないと思われる。
「わかりやすい」説明からは、新たな言葉を習得しにくい。
「わかりやすい」説明からは、複雑な物事を理解しにくい。
まず、「わかりやすい」説明からは、新たな言葉を習得しにくい。これは、「わかりやすい」説明が、「聞き手」の「知らないこと」を「聞き手」の「知っている言葉」で説明することだからである。
「聞き手」の「知っている言葉」で説明するとは、逆に言えば、「聞き手」の「知らない言葉」で説明しないということであり、その分「聞き手」は「話し手」の言葉が「わからない」と感じることが少なくなる。
しかし、新たな言葉を習得するには、まず「知らない言葉」に出会い、次にその言葉が「わからない」と感じながらも言葉の意味や使い方を推測し、実際に使うことで最終的には「知っている言葉」の一つになると思われる。
もちろん、言葉の意味や使い方を誤って推測したり、うろ覚えのまま使って正されることも多いだろう。そうした回り道も経ながら、少しずつ新たな言葉が習得されていくと思われる。
実際、人は説明されたことがない言葉もたくさん使っている。辞書をよく使うような人も、自分の使う言葉の全てが辞書で学んだ言葉ではないだろうし、辞書を使う時の多くは「知らない言葉」に出会った時である。
つまり、「わかりやすい」説明では「聞き手」の「知らない言葉」で説明されることが少なく、新たな言葉を習得するきっかけが生まれにくいため、「聞き手」の語彙力が上がりにくいという問題があると思われる。
次に、「わかりやすい」説明からは、複雑な物事を理解しにくい。これは、「わかりやすい」説明が、複雑な言葉や物事を単純化してしまうからである。
例えば、「わかりやすい」説明では、「正確だ」を「正しい」に置き換えていたが、「正確だ」を「正しい」に置き換えられないような、つまり両者が異なる意味で使われれている表現も次のように存在する。
上の例は、「道徳的に正しい」という表現から、「正しい」が「道徳・法律・儀礼などにかなっているさま。」(『明鏡国語辞典(第二版)』)という「正確だ」にはない意味で使われていることがわかる。
下の例は、「正しいが、正確じゃあない」という表現から、「正しい」は「真である。」(同上)、「正確(だ)」は「正しく確かなこと。」(同上)のように、同じような意味で使われている。
しかし、「正しい」を「正確だ」に置き換えられないように、両者は異なる意味として使われれており、ここでは「正しい」よりも「正確だ」の方がその正しさ/正確さが大きいと思われる。
つまり、「わかりやすい」説明ではより簡単な言葉に置き換えられ単純化されることで、意味や使い方に細かな違いがある複雑な言葉を理解しにくくなると思われる。
その結果、主に言葉を通して理解される物事についても同じことが言え、複雑な物事を理解しにくくなると思われる。
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今回は、「正しい」と「正確だ」という言葉の違いから、主に言語習得について考えた。
前半では「話し手」が「聞き手」への説明で必要とされる「わかりやすい」説明について、後半では「話し手」は常に「わかりやすい」説明をすべきなわけではないということを述べた。
「わかりやすい」説明は、後半で挙げたような問題はあるものの、多くの場合で非常に重要であることはいうまでもない。日本語母語話者でない人(日本語学習者)のための「やさしい日本語」もその一つと言える。
では、どのような時に「話し手」は「わかりやすい」説明をすべきではないのかというと、例えば「話し手」が教員や保護者である時だろう。
塾や予備校の講師であれば、「わかりやすい」説明による生徒の学力向上が最も優先されるだろうが、教員や保護者であれば、生徒(子ども)の学力向上だけでなく言葉の習得や複雑な物事の理解も優先するべきであろう。
もっとも、「わかりやすい」説明をしながら新たな言葉の習得や複雑な物事の理解を促すことも不可能ではない。「正確だ、つまり正しい」と言い換えたり、「鉄道、例えば電車や列車」と例示したりすることができる。
そのようにして、「聞き手」が「知らない言葉」に出会う機会を作り、新たな言葉を習得させたり、それを繰り返すことで細かな言葉の違いを意識させることは可能であると思われる。
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参考文献・参考資料(2022年3月29日最終確認)
秋田禎信、草河遊也(2011)『魔術士オーフェンはぐれ旅 キエサルヒマの終端』TOブックス
桶谷秀昭(1993)「藝の理論と我執三部作 伊藤整(最終回)」『新潮』第 90 巻、 第 11~12 号、p284~319
武田鉄矢(2020)『人生の教養を高める読書法』株式会社プレジデント社
辞書(2022年3月29日最終確認)
『明鏡国語辞典(第二版)』(2011)大修館書店