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あの子の日記 「手汗」
何かにおいを感じたときは、においの物質がすでに鼻の粘膜に溶けているという。汗のにおいも、柔軟剤のにおいも、お風呂上がりの優しいにおいも。にぶい嗅覚が反応していつもより深く息をしたときには、あの人はすでに私の中に溶けている。
「それでね、私思ったわけ。直接からだに触れなくたって、田中くんを感じられるんじゃないかって」
2軒目に選んだ大衆酒場は正解だった。シャツの肩を落としたオネエチャンに四方を囲まれてフルーツソルベやサングリアを飲んでいるより、くたびれた暖簾を揺らす居酒屋で友人がキープしている焼酎をちびちびやるほうが性に合っている。
「中学生の恋愛じゃないんだから」
「そんなの分かってる。だけどさ」
だけど、田中くんは薄いガラスみたいに繊細で、触れただけで割れてしまいそうなのだ。触れただけで関係が壊れてしまいそうなのだ。言葉に詰まり、氷が溶けはじめたグラスの水滴をなぞるだけになった私に、ゆりちゃんは「だけど?」と返事を急かした。
「なんでもない」
「あたしならもどかしくって押し倒すけど」
「むりむりむり。そんな勇気ないよ」
空いていた隣のテーブルに大学生風の若者たちが案内された。友人の集まりとも恋人の集まりとも言えるようなその瑞々しい活気から逃げるようにして、私たちは店を後にした。
・・・
0時を過ぎるとこの街はとたんに静かになる。田中くんと暮らすアパートの一室は明かりが消え、すでに夜を迎えていた。鍵がかかった玄関のドアをゆっくりと開けて、できるだけ声帯を震わせないように「ただいま」と呟く。
二人で眠るにはすこし狭いセミダブルベッドからは小さな寝息が聞こえる。目を開けているときには取れない距離で寝顔を見つめても、彼はまだ目を覚まさない。
あ、田中くんって意外とまつ毛が長いんだ。鼻の骨はすこし歪んでいて、うすい唇は乾燥している。保湿していないわりに肌が潤っているのはどうしてだろう。
そっと手を伸ばし初めて触れた頬は、磨りガラスのようにざらざらしていた。汗ばんだ指先から伝わる彼の存在は嗅覚で感じるよりずっと明確で、指先に残った彼の温度が私のからだを熱くした。
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