あの子の日記 「予言者」

「たとえばさ」
彼がそう言って会話をはじめるとき、あとにつづく言葉はたいてい現実になる。たとえば二人きりでどこかへ出かけるとしたら。たとえばおいしい料理を食べにいくとしたら。たとえば僕がきみにまた会いたいと言ったら。たとえば、僕のとなりにずっといてほしいと言ったら。

しばらくして、あたらしく二人で生活するための部屋を借りた。日当たりがよく、区切られたそれぞれの空間を確保できる間取りのところならどこでもよかった。彼はひとつの部屋でひっついていたかったらしいけれど、わたしはそれを嫌がった。

「たとえばさ、あのとき1LDKの部屋を選んでいたら、僕たちはどんな生活をしていただろうね」
窓の外のあかるい空を眺めながら、めずらしく、実現しなかったことに思いを馳せているらしかった。うす茶色にくすんだビー玉のような瞳は、外の景色を眺めているというより、透明な窓ガラスをただじいっと見つめているように見えた。

「そんなわたしたちは存在してないわ」
「たとえば、の話だよ」
「3年前にもどって、不動産屋に行くところからもう一度やり直したいとか思ってんでしょ」
「不動産屋には行きたいと思ってる。ただ3年前にもどってから、とかじゃなくて」

ぴきぴきとビー玉に亀裂がはいる音がした。いずれこんな日が来るだろうと、数週間前から予感はしていた。

「引っ越す、ってことだよね」
「そう」
「それはわたしと」
「いや」
「あなたひとりで」
「そう。いや、きみじゃない別のひとと」

予想は的中だった。繁忙期でもないのに週末にやたら残業つづきだったのは、べつの女の家に転がりこんでいたかららしい。よそのベッドを揺らし、始発の電車に揺られ、帰りたくもない2DKに帰ってくる。そして、帰宅早々わたしが眠るベッドに倒れこみ、なにが「くたびれた」だ。一体なにに「くたびれて」いたんだ。

「たとえばさ」
彼がそう言って会話をはじめるとき、あとにつづく言葉はたいてい現実になる。たとえ、その相手がわたしじゃなくても。

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もりみ
あたまのネジが何個か抜けちゃったので、ホームセンターで調達したいです。