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あの子の日記 「ほほえんで割れる薄い皮膚」

かわいい子ぶって注文したカプチーノのふんわりしたミルクがカップの底に溜まっている。分かる。分かるよ、ふわミルクの気持ち。カプチーノの一員として最後まで飲んでもらいたかったよねえ。可哀そうに。と、カップを眺めていたら、ミキちゃんが軋まないベッドがどうのと言った。

「あ、ごめん。聞いてなかった。ベッドが何って言った?」
「軋まない、ベッドが、欲しい、って言った」

大きな窓から太陽の光が気持ちよく射しこむお洒落なカフェでそんなことを言うなんて、ミキちゃんはまったく破廉恥だ。しかもまだお昼過ぎだし、素敵なワンピースを着たきれいなお姉さんとかたくさんいるし、とにもかくにも破廉恥だ。

「その話やめとかない?まだお昼だよ?お盛んな話は夜にとっておこうよ」

ミキちゃんは笑いながら、店の脇を通る散歩中のトイプードルに目をやった。チャコとかチョコとかいう名前のよく似た犬を実家で飼ってるって言ってたっけ。

「もうやだなあ、違うんだから。うちにあるベッドね、寝返りうつとすっごい軋むのよ。そういうのってなんか嫌じゃん?」
「えー、絶対うそじゃん。絶対そっちの話だったじゃん」
「はいはいはい、どっちでもいいですぅ。そんなことより、このあいだ言ってた人とはどう?うまくいってる?」

うまくいくも何も、私たちはこうして出会うためにいくつもの試練を乗り越えて今日まで生きてきたのかもしれない、なんて思っちゃっている。世界中の辞書にある「運命」という言葉の説明書きには、「私とヤマダくんが出会うこと」と書いてあるにちがいない。

好きだと言葉にしなくてもお互い好きだと分かってしまうから、頭の中はついつい破廉恥なことでいっぱいになる。また明日も会えるだろうかと胸を躍らせた夜は、並んで天井を見つめる幸せな時間に変わり、宙ぶらりんだった左手はいつの間にかヤマダくんと手を繋ぐためのものになっていた。

そして、こんなふうに大惚気をかましていた日々は嘘のように消えて、現在に至る。乾いた唇を重ねていても潤った気がするのは一瞬で、またさらに乾いてしまう。そんな日々だった。

歌詞の意味が分からない洋楽を聞き流すように言葉を交わした彼との最後の日。「たのしかったね」と笑いかけたら、ひび割れた唇にすこし血がにじんで痛かった。



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もりみ
あたまのネジが何個か抜けちゃったので、ホームセンターで調達したいです。