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あの子の日記 「白濁」
「まーくん、ぎゅーにゅーイヤ!」まだ幼い息子はそう言って子ども用のパック牛乳を手でたおした。好き嫌いしてるとパパみたいに大きくなれないぞ、と父親らしいことを言ってみるが、本当は俺も牛乳は好きじゃない。
あるときから、牛乳を目にすると小柄で日焼けした少年の顔が脳裏に浮かぶ。泣き出しそうな顔をしてこちらを睨むのだ。
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15年前のことだ。中学2年、1学期最後の給食の目玉は豚肉のオーロラソースがけだった。クラス全員分を配膳し終えると、風邪で欠席している子の分が1枚余り、食べ盛りの男子たちで争奪戦になった。
サッカー部連中3人と、野球部のケイ、俺の5人でのじゃんけんだったが、大事な場面でことごとく運の悪い俺に勝ち目はない。このときも案の定負けて、結局それを食べたのはサッカー部の誰かだった。
「誰か余った牛乳1本飲まない?ねえ、そこのじゃんけん負けた軍団たち。残念賞あげる」トレーに残ったソースをたっぷりかけた豚肉を美味そうに食うサッカー部男子を横目に、給食係の女子が席に戻ろうとする俺たちに向かってそう言った。
ここで声をあげたのはケイだ。「あ、俺飲むよ。ありがと〇〇さん」みたいなカッコつけたことを言っていたが、女子に積極的になる姿はあいつにしては珍しい。そもそも牛乳自体そんなに好きじゃないと言っていたのに。
「牛乳飲んで背伸ばさねーとモテねーもんな!ケイ」
「うっせーな」
そう言いながらケイは2本目の牛乳を飲み干した。
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牛乳を飲むと腹の調子が悪くなるという人がいるが、給食を食べ終えたあと「やべー腹いてー」と言いながらトイレへ駆け込んだケイも同じような体質だったと思う。
昼休み終了のチャイムが鳴り、5時間目開始まであと5分となってもあいつはまだ教室に戻らなかった。この予鈴が鳴ると大概のやつらは運動場から引き上げてくる。階段のあたりからは既に騒がしい声がしていた。
俺は教室に戻ろうとする汗くさい流れに逆らってトイレに小走りで向かい、まだ閉まっている個室へ声をかけた。
「ケイ大丈夫か?予鈴鳴ったぞ」
「おう聞こえた。もう戻る」
「おう」
今思い返すとどうしてあんなことをしたのか分からないが、あのときの俺はケイに声をかけたあと、掃除用モップを壁から個室のドアへ突っ張らせるようにしてそっと立てかけ、そのまま教室へ戻った。
本鈴が鳴り終わり、授業が始まってもあいつは戻ってこない。教室では「起立、気をつけ、礼」「おねがいしまーす」と一連のあいさつを済ませ、いつも通りの午後が始まろうとしている。
国語の授業は教科書を開く前にまず漢字小テストを行う。先生が最前列の端から順に人数分の問題用紙を配布し、前の座席から後ろへ送っていく。
「そこの席休みか?」
「さっきまでいました」
「そうか。保健委員さん、コヤマが早退したとか保健室にいるとか、担任の先生から聞いてないか?」
「いやー別に聞いてないです、なんも」
「そうか。ほかに思い当たることがある人」
「そういやケイ昼休みから見てねーな」「ドッジ来なかったし」「たしかにー」「今日あんまり人集まんなかったよな」
「タクヤ、お前一緒にいたんじゃねえの?」
名前を呼ばれ心拍数が一気に上がった。
どうせあと5分もしたら戻ってくるだろ。腹痛いって言ってたしどうせ長く篭ってるんだ。ずっとうんこしてるって思われたら恥ずかしいから戻ってこれないんだ。ドアが開かないとかそんなんじゃないはず。俺がモップで塞いだからとか、だから100%俺が悪いとか、そんなんじゃねーはず。
「いや、俺暑かったからさ、俺、図書室に行ってた。ひとりで。涼しいし。ケイは何してたか知らねーけど、昼めし食ってからあいつ腹いてーとか言ってた気がする。たぶん」
「そうか。じゃあ先生トイレ確認してくるからみんなは静かにテストしておくように。戻ってきたら回収するからな。カンニングすんなよ」
そう言って先生は教室を出て行った。解答欄を埋めようにも頭が回らず、鉛筆を持ったまま白紙に近い問題用紙を見つめていると教壇から声がした。ケイは今保健室で休んでいて、今日はこのまま帰ると言う。
授業が終わり10分休憩になると、保健委員がケイのカバンを持って保健室に向かおうとしていた。俺はできるだけ誰とも目を合わせないようにして証拠隠滅のためトイレに向かった。トイレにはまだ誰もいなかったが、モップはすでに片付けられていた。
ケイが自分で片付けたのか?見に行った先生が片付けたのか?もしくは別の誰かが片付けてくれたのだろうか。そもそもあいつは自力で個室から出られたのだろうか。だとしたらどやって脱出したんだ。モップが運よく倒れたのだろうか。俺が立てかけたモップを親切な誰かが取り払ってくれていたのだろうか。
ところどころ塗装が剥げている掃除用具入れの前で立ちすくみ、手だけ洗って教室に戻った。
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「ヤーダー!ぱぱもぎゅーにゅーのまないじゃん!」
「いいんだよ、パパはもう大人なんだから」
もう大人なんだから、もう大人なんだ俺は、と反芻する。
15年前の記憶が白く濁って薄れていくなか、小柄で日焼けした少年の顔はまだはっきりと脳裏に浮かぶ。ケイは泣き出しそうな顔をして、ずっとこちらを睨んでいるのだ。
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