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読書記録42『街場の文体論』内田樹
こんにちは、だるまです。
突然ですが、誰に向けてnoteを書いていますか。
内田樹は、最終講義のなかでこう言います。
「『情理を尽くして』という態度が読み手に対する敬意の表現であり、同時に、言語における創造性の実質だと思う」
最後の最後にこう締めています。
「『響く言葉』『届く言葉』『身体に触れる言葉』とは(中略)
『魂から出る言葉』『生身から生まれる言葉』だということです。」
つまり、受け取り手を想定しなければ、届かない。
本当に伝えたいことがあるのであれば(ここが重要だと思いますが)、誰かに手紙を書くように、「お願い、言っていること分かって」と揺さぶるような言葉でないと届かないということです。
だるまは漫然とnoteを書いていることもあるので、ちょっぴり反省。
このnoteで伝えたいことは何だろう、と考えると、「この本を読んでほしい」「言葉について考えることは面白い」かなと思います。
読んでほしいと思ったから、初めに本文の引用をしました。
言葉について考えること、は本を読むことにもつながります。
内田は学校教育に強い反感を持っているので、講義内でもガシガシ批判しているのですが、とくに「オリジナリティ神話」によって書く能力が低下していると指摘します。
「思ったまま、自分のことばで書きましょう」
というやつです。だるまは読書感想文が一番嫌いだったことを思い出しました。今では読書記録ばかり更新している。
小学生や中学生の語彙力で、「自分の文体」なんて獲得できるほうが天才です。オリジナリティを求めるのではなく、他者の言葉を浴びるように読んで、体得していくしかないのです。
そんなことがまとめられている、『街場の文体論』で言葉とは、書くこととはを考えさせられました。
「僕たちにできるのは、せいぜい自分の思考も感覚も、すべて一種の民族誌的偏見としてかたちづくられているという『病識』を持つことだけです。」
かしこ