ぼくはいつでも死んで構わない「無敵の人」に限りなく近いヒト
僕は昔からいつ死んでもいいと思っている。
その考えは小さい頃からで、自己肯定感がマイナス1000%だからだ。
哲学的な話は一旦隅に置いておいて、「何故ぼくは産まれたのか」
「何故生きているのか」
などの人生の意義が分からない。だから例えば今日眠って明日目覚めなくてもいいと納得してしまっている。哀しいことではあるがそれは一朝一夕では変わらない。だから僕の最大の武器は「失うものがないこと」なのだ。
守るものがあればあるほどしがらみが増えたり行動に制限が掛かってしまう。それは行動力を抑える抑止してしまう意識が出てくるからだ。
しかし僕にはそれがない。だから自分の生命や尊厳が脅かされそうになった時には全力で相手を叩き潰す用意がある。
その際に自分が傷付くことを厭わないのだ。
それが自分の最も大きな武器のひとつである。
しかし、社会が閉塞していくにつれ、「無敵の人」というワードが誕生した。
あえて無理矢理表現するならばそのワードに近い状態である。
自分が自分自身の責任を負い、後始末ができることならば自由だからだ。つまり僕自身の身体や精神は極めて自由に近い状態だと考えている。
しかし、僕は「無敵の人」に極めて近い状態ではあるが、失うものが「全くない」と言われればそうではない。
割愛するが両親は不在で兄弟もいない孤独感は感じたが、育ての親と親友が数人いる。
その人たちは自分の命よりももしかしたら大切なのかもしれない。
だから僕は「無敵の人」に近い状態でありながらそれだけが前述した行動を抑制する思考が自殺や犯罪などの非社会的行為を踏み出す一歩をなんとか抑えている状態だ。
でも本来僕みたいな「無敵の人」に近い人間は存在してはいけないのである。
それは否定ではなく、理想論としてそんなものを産み出す社会ではあってはならないと言うこと。
誰かを排除すれば排除された人間はどうすればいいのか。
崖っぷちで孤独に戦い、人生の意義や未来に希望も見出せず、過去に苦しみ、結果的に無差別殺人などの犯罪に走ってしまう。
それは排除することは間接的に産み出した社会に排除された者が一矢を報いる力を生み出してしまう。
そしてその無敵の人が最期の力を振り絞って放った一矢はいつ誰に向かうか分からない。
そしてそれを実行する者には共通して失うものが少ない、またはないと考えている。
自己肯定感なんてものはとうのとっくに宇宙の塵になっている。
でなければ「誰でもよかった」などと言う理由で無差別に人を傷付ける思考には至らない。
僕にはまだその思考は理解に至っていないし、理解したくもない。
ただ、その人の人生に興味があるだけだ。
「なぜここまで追い詰められてしまったのか、その人生はどんなものだったのか」
それが知りたいだけなのである。
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彼らや社会は簡単に弱者や気に入らない人を排除する(社会的に抹殺する)だろう。だが僕は殺さない。
あんなことをしたんだ。僕だって殺してやりたい。
だが殺せばおまえは何も語らない。お前は何も語っていない。
おまえは何故彼らや自分を殺したのか。彼らはおまえに何をしたのか。
それはおまえの心に何を呼び起こしたのか。
おまえの思想は何だったのか。
おまえはどんな環境で育ったのか。
両親はどんな人間だったのか。
その残虐性に至ったきっかけは何か。
つまり、おまえは誰なのか。
殺したいより知りたい。
僕の憎悪はおまえという人間を知り尽くして初めて癒される。
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ここで言う僕は"自分"であり、"おまえ"も自分自身なのだ。いつも問いかけている。
その憎悪を癒すために。