民間教育市場が持つ可能性「公教育を救う存在に」
教育現場は今、大きく変わっている。
教材のデジタル化やICT教育、これからの時代に求められる人材像に応じた改革や、デジタル化が進む昨今の状況に合わせた先進技術の導入がなされている。
これまで学校は「閉鎖的な空間」と言われ続け、学校の中だけであらゆるものが完結する環境は学校の中と外を隔てている状態であった。
そこから、近年の技術革新や時代の変化により、ICT機器をはじめ、外部の教育製品・サービス無くして時代に対応する教育の遂行は難しい状態となり、学校外からの公教育への参入が活発化してきている状態となっている。
それでも教員の労働環境は改善されるどころか新しいサービスの導入による困惑の声や、サービスを使いこなすために業務が増加し、結局負担は増える一方という事実もある。
公教育はもっともっと民間教育市場に頼るべきであり、それがあって初めて公教育と民間教育の協働がスタートするのだ。
協働といっても一つのものを公教育と民間教育で協働企画していくのではなく、公教育では難しい部分や穴埋めしたい部分は要望のみを伝えて民間に丸投げして企画・設計してもらうことが望ましいと考える。それが結局、学校教育全体で見たときに公教育と民間教育の協働となる。
教員が自分の教科を教えることに集中し、存分に自分の力を発揮するためには、他にある業務は民間の手を借りても良いのではないだろうか。また、教えるにあたっての材料(コンテンツ)を募り、一斉に提供することで教員も適宜コンテンツを選択して扱いながら指導ができるようになるだろうと考える。
極論だが、学校は教員を選定し、教科書会社の教科書を選定し、外部から教育に使えるコンテンツを選定すれば教育を回すことも可能と言えるだろう。そこから個別最適を実現するのであれば教師の腕が試されるということになる。
昔と教師と今の教師の違い
明治5年、学制が交付され近代の学校教育制度はスタートした。昔の「先生」と言えば、皆んなが知らないことをなんでも知っているすごい人。分からない事があれば先生に先ず聞くか書籍を漁るという選択肢になっただろう。「先生」というものはまさに新しいものや知識を託してくれる存在であった。
インターネットが普及し、近年ではスマートフォンなどの端末所有率はほとんどとなっている中で「知らないことは全てスマートフォンが教えてくれる」「新しいこともスマートフォンが教えてくれる」そんな時代になった。先生に聞くまでもなく、自分で調べて解決してしまう事例は多く見られるだろう。でもそれだけでは分からない事がある。それを大学の教授は日々研究し開拓している。正に「皆んなが知らないこと」「あたらしいもの」を追い求めている。昔の先生は今で言う教授にあたるのかもしれない。
では今の先生に求められるものとは?
知らないことを教えてくれる人?
近代化を成し遂げ、先進国になった日本において、今必要とされているのは「生徒が自ら開拓する力」である。つまり、知らないことを自分で開拓する=未来創造の力を養わせてあげなければならない。
教科を通して、生徒がまだ知らない単元を教えるのではなく、新しい単元を通して新しい見方や考え方を与え、自立して解を見つけるまでに持っていかなければならない。
民間教育の可能性と「教育」の可能性
そして、これからの民間教育市場の拡大には、まず公教育の現場にどれだけ今のうちに土台を築き、あらゆるサービスで公教育内にプラットフォームを築けるかが鍵となるだろう。
また、人がこの世界で営み続ける限り「教育」という行為は消えない。例え少子化が進もうとも「教育」そのものはあり続ける。もしも教育が無くなる時が来るとしたら、それは世界が終息に向かう時である。
この先も学習していく分野は広がり続け、世界で求められる能力も多様化していく。そこには新しい教育の需要があり、新しい教育のサービスが生まれる。