Tシャツを買いまくる日常
Tシャツを自作することが無くなって、そのエネルギーを人が作ったTシャツに向けている。日々の食事もそうで、人が作った飯を食い続けていて、そろそろ自分で料理しようかな。と考えている。(正月のがめ煮が食べれなかったことが残念)
「自作かそうじゃないか」ということは自覚的でないといけないと思っていて、油断すると何もしなくなる。自堕落という言葉があるが、それが叶ってしまう環境に置かれている。砕かれたいと常日頃から思ってきたが、予期せぬ形で叶ってしまった。とも言えるかもしれない。
個人情報の概念がぶっ壊れるし、便利最優先になってしまう。徒歩でいけるマックですらも悩むことなく、デリバリーを選択している。300円のセットに対して、人件費は30円。アプリに制御されていないか?完全にコントロールされている。俺もそこにガッツリ関与している。
市場でTシャツを漁っている。ほとんどが模造品なので、オリジナルのものを探す方が困難だ。(求められているのはブランドの安価コピー品だ)
隠されている方が俄然、燃えるしアンテナの感度も上がる。「背痛」と書かれた色々と破綻しているTシャツを購入。ディスプレイにカーキ色のボデーがあってそっちが良かったが、Lサイズの在庫を聞くと白しかなかったのが残念。他にもこの種類がたくさんあった。
世界を見渡すと同じ感性のやつがいるというのを認識して、ちょっとアガった。まとまった金が入ったら100枚くらい購入して、製造ルートを聞き出して作ってもらおうと悪だくみしている。
自分が知らないだけで、紙ものも面白いものが転がっているはずだ。大須の骨董市に通い詰めたのは市場でディグるための予行練習だったのではないか?今はそんなことを思っている。7時半に近くのお粥屋が開くらしいで行ってみることにしよう。(自炊の道のりは遠そうだ。トホホ)