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下山事件にみる歴史のねじ曲げ方 プロローグ15
一部が削除された覚書
前回は「NHKスペシャル未解決事件File.10下山事件」が入手した新ファイルについて書きました。
その内容をこれから見ていくのですが、東京地検が巻いたRの調書と照らし合わせても、時系列のつじつまが合わないところが出てきます。
ただ、じっくり読み込んでいくと、その理由は分かるような気がします。
キャノン少佐が「確認」
NHKが入手した参謀第2部(G2)内部連絡用の覚書2種類は、文言が重なった部分が多いと前回書きました。
そこで1950(昭和25)年2月16日作成と分かる方をA、もう一方をBとして、二つをまとめて箇条書きにしてみます。
(〈 〉内がソースの文書です)
〈A・B〉Rは1948年の夏の終わりに東京第25地区CICに情報提供者として初めて雇われた(Bでは「雇う」という単語が線で消され、手書きで「利用する」という単語に書き直されています。そうするとBの方は「情報提供者として初めて利用された」)。
〈A・B〉48年11月、RはJSOに逮捕されたが、結核が進行し寝たきりの状態で、すぐには裁判にかけられず、拘置所から出ようと画策した(Bでは「by JSO」が線で消され、判読不明の五つくらいの単語に訂正されています)(※)。
〈A・B〉次に、偽名を使い、東京第25地区CICへ「ソビエト・クーリエ(ソ連諜報員)の主導者」として現れて協力を申し出た。(Bでは「ソビエト・クーリエ」の上に手書きで「自称」の文字)
〈A・B〉49年6月21日、東京第25地区CIC事務所でRが「確認」された。確認した将校は少佐のキヤノンや松井准尉ら(「事務所に姿を現し、Rと確認した」という程度の意味にも読めますが、前後のつながりを考えると「面接して経歴あるいは主張する情報の内容を確認した」といった重い意味のように思います。Bでは、この一文が全て線で消されています)。
〈B〉Rは、本当に「ソビエト・クーリエ」であることが証明されるのを期待され、(「確認」から)2~3週間、(勾留などはされず)活動が許されていた。そういう、事実関係の検証がされていない報告を「確認」のすぐ後に受理した。(全てが線で消される。Aには元々、この一文はない)
勾留中に面接?
「初めて」「次に」という言葉が呼応していますので、最初は本名でCICに何らかの情報を持ち込んで採用され、次は本名では差し支えるので偽名を使って情報を売り込みに来たということだと思います。
書いてあることが、検察の巻いた調書と矛盾します。
調書には「49年6月18日にCICに逮捕された」「同31日にいったん釈放され、7月12日に再逮捕された」と書いてありました。
これが正しいとすると、Rは勾留中にCIC事務所に姿を現したことになり、しかも将校の面接まで受けていたことになります。
これはどうしたことでしょう。
B文書は面接の部分が全て線で消されていますので、文書をタイプしてから日付の誤りに気づいたということでしょうか。
しかし、訂正がB文書だけに見られるのが気になります。吉橋准尉への「恩返し」の意味もまだ解明していませんでした。
次回以降に見ていきます。
※JSO逮捕
判読不明の単語は「for」の後「いんちき」「虚偽」「違反」「SD」「再逮捕」のようにも見えます。詐欺的な犯罪容疑が書いてあると推測します。SDは「Security Division」でG2保安課でしょうか。すみません、元のJSOが何か分かりません。50年1月、G2に特殊工作担当の統合特別作戦部(JSOB)が新設されています。JSOBは「Joint Special Operations Branch」だと思います。このBを抜くとJSOになりますので、この部署でしょうか(文書を書いた時点では存在する部署ですが、逮捕の11月時点は未設なので「JSO」を削除し、代わりに容疑を書き加えたのかもしれません)。
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(プロローグ16につづく)