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下山事件にみる歴史のねじ曲げ方 第Ⅰ章6
数日前には兆候
下山定則・国鉄総裁は当初、1949(昭和24)年7月7日に第一次整理案を発表する腹積もりだったようです。しかし、GHQのエーミス労働課長から6月28日、「ぐずぐずするな」と強く叱責されました。
手帳の筆跡は乱れ白紙に
下山総裁の手帳には、そのような記述がありました。しかも、前日までと違って筆跡は大きく乱れていました。
そして、その年の始めから一日も欠かさず書いてきた手帳が、次の日から白紙になりました。よほどの精神的なショックを受けたと推測できます。
「ぐずぐずするな」ということなので、7月1日に解雇案を発表する手はずで組合交渉に臨みましたが、抵抗に遭って果たせず、翌2日の交渉も物別れとなりました。以後、交渉が開かれることはありませんでした。
組合側も見た苦悶
組合副委員長、鈴木市蔵氏が2日の交渉が終わる時の様子を著書「シグナルは消えず」(1949年)に書き残しています。
少しはしょって内容を紹介します。
「国鉄首脳陣はこの日、過去3カ年の交渉で見せたことのない苦悶の表情をしていた。午後5時前になると突然、下山総裁が『もう、これで話を打ち切りたいと思う』と振り絞るような声を上げた。立ち上がり(こちらに)向けた顔は深い苦しみに満ちていた。彼は頭を垂れ、後ろ向きになると、取り囲まれるようにして部屋を出て行った。我々は座ったままで、いつまでも無言でこの退場を見送っていた」
その3日後です。鈴木氏は午後7時ごろ、通信社の記者から下山総裁が行方不明になっていると聞きました。
その時のことをこう書いています。
「瞬間、不幸な予感をひらめくように感じた。下山さんは死ぬかもしれない、という予感であった」「心をのぞいた者のみがつかみ得た、ひらめきであったかもしれない」
それほど、下山総裁の苦悩の表情が頭にこびりついていたということでしょう。
組合員に向け、首切りを阻止できなかったことについて言い訳をした側面のある文章だと思います。また、「共産党は事件と無関係だ」と主張する意図もあったかもしれません。
しかし、唯物論者と思われる鈴木氏が、こんな因縁めいた書き方をするとは、組合側もただならぬ異変を感じていたことは確かだと言えるでしょう。
すぐばれるうそ
警視庁側の捜査記録にはありませんが、下山総裁は交渉打ち切り後、官房長官のところへ経緯を報告に行きました。
官房長官によると、「第1次整理案に、ストを含む実力行使を決めた労組幹部は含まれているのか」と問いかけたところ、下山総裁は「一部入っております」と答えたのだといいます。
官房長官としては「一部」では困るので、「熟慮の末に決めた政府の態度である。ぜひ全員を第1次に含めよ」と念を押しました。
整理対象者は各現場の責任者が決めるもので、総裁や本庁で人選することはありませんでした。ただ、労組幹部については本庁内で検討したのだそうです。
結局、若手職員を中心に「不当労働行為になる可能性が強い」という反対意見が強く、1次案では見送られていました。
総裁は、2日後になればばれるのに、うそをついたのです。この時、既に冷静な判断ができなくなっていたのではないかと思われます。あるいは、既に死ぬ覚悟を決めていたのでしょうか。
兆候はこの日(2日)の昼、既にはっきりと出ていました。次回に書きます。
(第Ⅰ章7につづく)
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