【連載1】きっかけはジョギングだった
──狩猟採集民の本ばかり読んだおじさんに芽生えた思想 #1
◎人間はどんなふうに走る動物なのか
最初に狩猟採集民に興味をもったのは、ジョギングに熱中したときでした。
37歳の年だったかな、会社を辞め、フリーランスになって3か月経ったある日、用事があって駅まで走ろうとしたんですが、身体がガチガチに硬くなっていて、100メートルももたなかったのです。情けない。運動不足解消のため、おそるおそるジョギングを始めました。初日は500メートルで断念。腰がちぎれるかと思うほど痛みました。それでも走れる距離は少しずつ伸びていったのです。体重も減りました。
もともと持久走が苦手だったんです。高校のマラソン大会では繰り上げスタート組。ふり返れば、太った奴しかいなかった。短距離は将棋部のわりには速く、100メートルを12秒台で走りました。当時は、短距離向き、持久走向きの人がいるという知識が体育の先生にもなかったようで、3学期のマラソン大会前の練習では「サボるな」とよく叱られました。先生、わしゃ必死だったんだよう。
(余談=私はおそらく速筋優位なのでしょう。速筋は瞬発力・パワーを発揮する筋肉で、白っぽいので白筋とも呼ばれます。その反対が遅筋です。持久力に長けていて、こちらは赤筋といわれます。海底にじっとしていて、敵に襲われるとパッと素早く逃げるヒラメが白身魚で、ずっと泳いでいるマグロが赤身魚なのは、そのためです。人間の場合、速筋と遅筋の割合は人それぞれだといわれます)
持久走が不得意だったからこそ、少し走れるようになると、「一度フルマラソンを完走したいな」なんて大それた夢を見たものです。何ごとも本から入る私ですからジョギングの入門書を片っ端から読みました。
ひとつ気がかりなことがあったんです。短距離は、土踏まずの前で着地し、踵を着かずにジャンプします。縄跳びの着地と同じです。でも、マラソンの入門書では踵から着地せよと書かれているのです。歩行の延長ということかもしれません。
私は短距離ランナーの習性なのか、ゆっくりジョグでも踵着地ができません。何度も試みるんですが、意識しないとフォアフット(前足部)着地に戻っちゃうんです。これでフルマラソンを走ると、重篤な故障に見舞われるのではないかと本気で心配しました。
そんなとき、運動生理学者でランナーである田中宏暁『賢く走るフルマラソン』に出会ったのです。
この文章がどれだけ私を勇気づけたことか。この本はいまだに──刊行からずいぶん経つので古びたところはあるにせよ──私のバイブルです。
◎本のなかから腕がでてきた話
日本マラソン界でも、次第に「踵着地かフォアフット着地か」という議論が熱を帯びはじめました。エチオピアやケニア出身のランナー(国は違えど、遊牧民カレンジン族が多い)がフォアフット着地でマラソンの好記録を連発していたからです。元マラソン大国・日本の選手はほとんど踵着地でした。2012年7月に放映された、NHKスペシャル「ミラクルボディー第3回 マラソン最強軍団 持久力の限界に挑む」では、パトリック・マカウ選手やハイレ・ゲブラシラシエ選手のフォアフット着地と日本人選手の着地が分析されました。
私の場合、着地に関してケリがついたなと感じたのは、2010年に翻訳刊行されたクリストファー・マクドゥーガル『BORN TO RUN 走るために生まれた』を読んだときでした。薄っぺらいサンダルで走るメキシコの走る民族タラウマラ族(ララムリ)や、100マイルのトレイルランナーたちの姿を通じて、「人間がなぜ、なんのために走るのか」を追究したドキュメントです。
NIKEの分厚いシューズより、サンダルや裸足のほうが旧石器時代の──つまり人間本来の──走りができ、怪我もしにくいと書かれています。私も影響されて、この本にも出てくるビブラム・ファイブフィンガーズはじめ、いろんな裸足系シューズで走るようになりました。
薄いシューズを履いて踵で着地すると衝撃に耐えられないことはすぐにわかりました。ランニング時には、足裏には体重の3倍から5倍の衝撃が加わるらしい。普通のランニングシューズは踵部分にクッションがあるので衝撃を軽減してくれますが、裸足系シューズだと、面積がせまくて硬い踵は衝撃を吸収しません。前足部のアーチにはその力をやわらげてくれる機能を備えているのです。人類の身体はフォアフット着地で走るようにできていると理解しました。
踵着地について思い出すことがあります。私が裸足系シューズに目覚める前、多摩川沿いの道を走っていると、どこからか、ドンドンという雷鳴に似た音がとどろくのです。立ち止まって空を見あげると、青空。雷ではないぞ。低音はどんどん近づきます。なんだなんだなんだ? 私は身構えました。はたして異音の正体は、かなり速そうな男性市民ランナーの足音でした。彼の足許を見ると、五本指ソックスみたいなファイブフィンガーズを履いています。真っ赤な顔をゆがめて脂汗を垂らしながら、私のわきを過ぎていきました。ランニングシューズを履いたときと同じ踵着地だったんでしょう。ガツン、ゴツンって、そりゃ痛いって。
私は、人が少ない夜中に、裸足で走ったことが何度かあります。アスファルトの細かい石があんなに粒だっていて、一歩一歩、足裏をチクチク刺激するとは知らなかった。暗くて視認できませんが、転がっている小石などの異物を指先が感じます。シューズを履いているときにはわからない、ちょっとした傾斜もわかります。素足は優れたセンサーだという話は本当でした。
これはのちに知ったことですが、フォアフット着地したあと踵がやや落ち、ふくらはぎの筋肉やアキレス腱などが急激に伸びて縮もうとする(伸張反射)ことを利用して身体が弾むのです。……ランニング時の身体の機能に関してはいくらでも書けますが、長くなるのでここまで。
靴を履くのがあたり前のわれわれは想像できないのですが、かつて人間は、裸足で歩いたり走ったりしていました。紀元前七千年前、米国オレゴン州のフォートロック洞窟で世界最古の靴が発見されています。人類の長い歴史からすればつい昨日の話ですし、シューズもいたってシンプルでした。
『BORN TO RUN』には、進化生物学の学者による研究についても書かれています。若い研究者がシンプルな問題提起をしたのです。
「ではなぜ、われわれは強い生き物ではなく、弱い生き物に進化したのでしょう」
われわれは、猛獣のような牙も爪もありません。飛ぶこともできない。かくもドンくさい動物なのに、なぜか滅びていないのです。
学者たちは、人類がほかの動物より優れているのは持久走だけだと考えました。たとえば四足動物は、走るさい内臓が前後し肺に食いこみ空気を吐き出させることや、発汗の機能などの理由で走り続けられないらしいのです。持久走が得意な動物はいません。
本の見開きから腕がにゅっと突きでて、私を指さしました。本当にそう幻視したのです。お前も走るために生まれたんだぞ! ドキッ。ほんとうは短距離走のほうが得意なんだがな、などと思いながらジョギングしていたんですが、「きちんと走らなきゃならん」と覚悟を決めました。
◎ブッシュマンの持久狩猟
ランニングマン説を唱えた上記の学者たちは、人間は動物をひたすら追いかけ、動物が疲れて倒れたところを仕留めたのだろうと仮説を立てましたが、立証できないでいました。すると、彼らの前に、カラハリ砂漠のブッシュマン(やっと狩猟採集民が出てきたよ!)と4年間暮らした人物が現れます。ルイスというその男は、ブッシュマンの持久狩猟、すなわち、一頭の野生動物を執拗に追いかけてへとへとにして倒す原始的な狩りに何度も同行していました。
ほら、あなたも走らなきゃ。19世紀あたりから、人間は動かなくなることを進歩と考えてきて、今やほとんど実現しているのに、そんな生活では不健康になるのでジョギングしましょう、というのも妙な話ですけど。
2012年、田中宏暁先生とお食事をする機会がありました。私はマラソンを3時間半以内で走っていたころです。日本一『賢く走るフルマラソン』を実践しています、と言うとニコニコ喜んでくださいました。『BORN TO RUN』はいいよね、今度マクドゥーガルに会うんだ、ともおっしゃいます。その年の冬、防府読売マラソンでもお目にかかり、レースの前後でお話ししたのも楽しい思い出です。先生は、スロージョギングを提唱し、世界的な有名人になりましたが、2018年に亡くなられました。
今現在、ランニングシューズのトレンドは、カーボンの入った厚底シューズです。踵着地よりもフォアフット着地のほうが斜め前方に弾むようにできているせいで、日本人選手もみんなフォアフット着地になっています。腰が落ち気味でペタペタ走っていた女子選手が、厚底シューズを履いてぐいぐい前方に弾んでいるのは、見ていて気持ちがいい。
──『BORN TO RUN』の持久狩猟の話は面白かったんです。ブッシュマンの狩りに興味が湧きました。しかし、狩猟採集民について具体的に学ぶのは少し先のことです。
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★参考文献
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